(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成14年3月号
 わずか百分の三秒で金を逃したと新聞は書いた。ソレトレイクオリンピックでのスピードスケート五百メートルだ。ソレトレイクでは清水の外、里谷、岡崎が頑張った。同じ頑張った人に田畑という女性がいた。いや選手は皆頑張った。でもやはり結果を出せた人達には特別な頑張りがあった。
 努力の方向性の違いというものを清水に見せられた気がした。
 努力は彼らだけでなく、私たち皆がしている。結果を出す努力でないからこそ結果が出せた事を私たちは知るべきだ。では、結果を出すためでない努力とは何か?。勝負の対象が常に自分にあって、その自分に対してやるべきことを全てやった事。あるべき自分に変った。…それが正解なのである。
 今回の清水は腰を痛めての出場だった。なのに「こういう状態で金メダルをとれてこそ本当の実力者。私は実力が不足していた」と言った。清水は努力・勝負の対象が競技ではなく自分にある事を知ってるからこう言えた。努力についてこの言葉の違いは大きい。
 多くの人はある種のライバルを特定し、あるいは競技上にある種の想定をして努力する。結果を想定したうえの努力だから逆に結果がでないのだ。運良く結果が出たとて、自分の名誉位にしかならない。滝打たれにしてもそうだが「滝は自己満足の手段ではない」と筆者はいう。悟りを開くために滝に打たれようなどとは笑止千万。筆者が悟れないから言うのではない。自分をいたずらに苦しめてみたって悟れるのではない。マトを得た行動の繰り返しで自分を受け入れられる…から始まるだけだ。現実を受け入れる努力をしていない苦行は自己満足を生んだとて自分を見失うだけだ。
 自分を見失っていてどうして自分を受け入れられようか。滝で「自分を高めたいと思うのは我がままで間違いだ。現実を受け入れ続けた結果、自分が変ってしまうだけだ」と言うのはここにある。
 滝打たれは長く打たれるから良いのではない。エイッという声で打たれ出し滝からだされるまでの短時間に、どう集中できるかが問題なのだ。滝に打たれに来て関心が自分でなく回りにあるうちは何も身につかない。おこがまし言い方になるが指導の対象外だ。
 苦行とかライバルの上を行く努力は意味をもたない。そういう人に限って肝心の勝負ができない。肝心の勝負とは、自分を受け入れ自分で自分に強制をすることだ。
 難行苦行とは現実の否応無しの姿に対して自分を対応されるために自分自分に強制する事を言うのであって、対応する世界を自分で選び決める事ではないのだ。

 否応無しに自分で自分に強制して対応することは肉体改造であるとともに精神改造の結果を伴う。自分への強制でそれまでのヤワな肉体が壊れて行く。だがヤワな肉体が壊れた分、それを補って余りある新しい肉体と常に補って行こうとする精神が生まれる。それが精神改造になり、更には強い価値観に達する。修行とか自己啓発とはそういうことだし、だから改造には継続・繰り返しが必要となる。
 かようにして人生は常に自分との戦いで、敵はいつも自分自身なのだ。「回りで休めと言ってくれても決めるのは自分だ」と筆者が言うのはここにある。自分を叱咤するのも決断するのもいつだって自分一人の世界の事だ。だから親子や夫婦や、ましてや地位や名誉が決断や叱咤の源であってみようがないのだ。
 自分との戦いははた目から見たら厳しい事の繰り返しだ。滝打たれを荒行と社会はいうが、スポーツ選手はもっと苦行をしている。だが真の荒行苦行は苦しさを含めて実は楽しい戦いでもある。やってる事は継続を要する苦しいことだがより自分らしく、より不動の自分に向かっているからだ。

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