(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成14年4月号
 春が来た。筆者は体重を落とし脚力を強くして夏の御嶽登拝に備える。夏登拝の八月までの五ヶ月間、自分と戦いが続く。
 他町の体育館に通う。知人がいると集中しにくいからだ。その体育館でのことだ。努力の方向性について先月もこの欄で書いたので同じことを書くようだがご容赦を。
 (やっぱり)と思う人と出会った。六十歳直前の男性だ。その人は相変わらず太っていた。さらに(やっぱり)と筆者は思った。飴をなめながらのご入館であった。そのうえ更に(やっぱり)と思った。新聞紙の持ち込みだった。
 すべて去年と同じだった。ちなみにトレーニングの態度も去年と同じで、新聞を読みながらバイクを漕いでいた。心臓に負担をかけない「適当な」負荷の「適当」を遊び半分と混同して考えているらしい―遊びというとダラダラやる事のように思う人が多いが、遊びの区分けは生産性の有無だ。生産性があろうとあるまいと集中とか熱中とかは生きる上での義務だ。
 去年と同じ現実にいるのに同じ事を繰り返している。(何をしにあの人は体育館に来ているのか)と思った。痩せたくて体育館に来たいのなら一年間やって変化なしの現実を認め、なぜ変化なしなのかについて自分やトレーニングのやり方を吟味しなければならない。
 何でもそうだが結果を出すにはまず失敗があって、その後に失敗と現実とを照らし合わせる行為が必要なのだ。体育館の男性はこの点がわかってないのだと思う。
 むやみ矢鱈に難儀をすればよいという思いや難儀をしないで楽しければよいという思いに共通する姿がある。それは、まず自分だけの思いから抜け出ようとしない姿だ。
 問題はここだ。苦しい目をしたから偉いのではない。楽したからよいのでもない。実質を踏まえてなければすべては意味がないということで、どんなに努力したっても実質がなければ我がままにしかならないのだ。
 体育館のあの男性は少なくても一年間継続努力した。が、結果が出てないその現実に疑問が湧いて来ない。それはやるべきことが見えてない証拠。なぜやるべきことが見えてないかと言えば、満足がなくなり、居心地が悪くなるからだ。体育館に来るよりも普段の考え方を直さねば彼は痩せられないはずだ。同様に結果を出したかったら失敗を受け入れ、失敗と現実を照らし合わしをせねばならない。そしてやりたいことではなくやるべき事を見いだすだけだ。だがかの男性の様に、多くの人は失敗や現実を受け入れられない。
 受け入れられないのは思い込みへの満足があるからだ。満足があるから常に楽だ。かの男性だって通って来るのは楽しいからなのだが、その楽しさは自分の思いを「そのまま」満たすという意味であって、自分の思いの奥に何があるのかの吟味はどうでもよいことなのだ。だがそれは人生を私物化しているのと同じことだ。
 どんな思い込みを持とうと自分の好きなようだが、回りでは大迷惑だ。思いを疑い照らし合わせをしない人は結局自分と戦えない、ただ思いのままに居心地だけをよくし人生を私物して生きて行く。
 肝心なのは居心地でなく思いへの吟味だ。思いを吟味するということは、自分をも回りをもあるべき姿にさせる。そこに公明正大な生き方がある。ところが人生を私物化する人は居心地の善しあしの世界から抜け出ない。自分の思いを吟味せぬそんな人に限って優しさとか楽しさを唱え、回りをそんな意味のない優しさや楽しさで振り回す。…大迷惑だ。
 痛みを受け確信に至る事が解決で、思いを果たす事が解決ではない。…思いを私物化する人ほど人生の安心と楽しさが分からない。

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