(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成14年5月号
今月はひんしゅくを買うのを敢えて承知で「政治にクリーンは必要でない」と文章を書きだす。「なぜ政治がクリーンであらねばならないのか」と筆者はずっと不思議に思って来た。宗教の仕事をしている筆者は、人間の中身は善悪半々でできていると唱える。そしてそんな人間の多くを多数の幸福の為に束ねるのが政治というものだ。その政治の世界に悪があってはいけないと多くの人が言うがそれは無理な事だ。なぜなら善悪半々という人間が多く集まれば結果として悪がなくなるのではないからだ。最高でも善悪半々なのだ。
 政治にはクリーンさでなく公平さが必要なのだ。公平さとは問題に対して実質を踏まえて形にする事だ。実質を踏まえるのだから政治の公平さは平等を意味しない。政治が常に少数の犠牲を強いるのが平等でない証拠だ。だからクリーンな政治とは政治を私しない程度のことしか意味しなくなる。
 さてTという女性議員がいた。いたという過去形で文章を書いて申し訳ないが、この文書を書いている今時点では議員を辞職していない。だが恐らく間もなくブザマに議員辞職せざるをえなくだろうし、辞職の際もかなり恥をさらしてしまうはずだ。
 T女史について筆者は以前から「キャッチフレーズの大家」とは評しつつも信用しなかった。それは私人と公人の別が見えなかったからだ。女史自らが「疑惑の総合商社」と指さしした証人喚問の後のテレビ出演をみてやっぱりと思った。「記憶にないと逃げられて予定の半分しか追求できなかった」と発言した。その次に筆者は女史の「申し訳無い」の言葉を期待した。だが女史はお詫びせず笑った。しかも高笑いだった。「とんでもない」と思った。追求がかわされたのは自分の力不足なのだ。端的に言えば(相手のS議員は追及をかわすしか出方がなくそれを分かっているのだから)追求をかわされるのはかわされる方が悪い。かわされた事を国民にお詫びするならともかく逆に高笑いをした。そんな女史の考え方に首をかしげ彼女は信用ならぬとの予感したが今回それが的中した。
 現代の政治は時の総理しかり、総理に首を切られた外務大臣しかり、そしてこの女史しかり、単に歯切れが良くてパフォーマンスがうまければ支持を得られる。時の総理なんぞは施政方針が何も実現できていない。なのに国民の半分が支持をしている不思議がある。
 T女史が「ハメられた」のには相違ない。だがそれはささいな問題だ。問題は女史には彼女の信念に反する行いがあった事で、その不正をリークされた事にあるのではない。リークされた事が女史の信念の反する事であることに問題の実質が有るのだ。だから自分と同じ疑惑のある人の名を公表する必然もない。早く(離党でなく)辞職をして、そのうえで秘書制度の議論をすれば良い。今までクリーンな政治を目指し他人の不正を糾弾して来たのだから、回りが離党で良いといっても自分の信念に自信がある事の証明に議員辞職して当たり前なのだ。よく言う事だが「休めと言われても休まない自由もある」のだ。その判断を自らの信念に基づいてすべきで、それでこそ自分で自分を誇れるのだ。
 自分の今あるべき姿に意地を張って自身の感情・我を捨てることが大切なのだ。それを鼎と言うが人間として最低限の事なのだ。

 女史に限らず自分の今のあるべき姿が見えない人が多い。やるべきこととやれることの区別を多数の人ができないのが現実だ。だから女史のように自分の信念の無さを晒しても恥かしいと思わない。
 もし人間に進歩という言葉があるとしたらそれは、自分の今あるべき姿に意地を張って自身の感情や我を捨てられる事を意味する。熟練や上達を進歩とは言わない。進歩とは人間の鼎の有無なのだ。

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