(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成14年6月号
 NHKの朝の連ドラ「さくら」についてだ。現代は「ひらり」「私の青空」の内館牧子以外に良い脚本家がいないようだ。だから今回の「さくら」も期待しなかったが、朝からのどたばたドラマはきついが芸達者が多く出演していて、やや面白い。「さくら」なる二世が中学で英語を教えるために飛騨高山に赴任したことから物語は始まった。「さくら」で為になるのは、米国人と日本人の違いが分かることだ。
 たしか五月第一週の事だった。
 さくらの下宿先で、嫁と姑の争いが起きた!ナアナアで過ごしたって意味がないとさくらが嫁と姑の間を動く。それが火に油を注ぐ結果となって嫁と姑の争いが大きくなり、出て行けと姑・お世話になりましたと嫁…。心配するさくらに下宿先の出戻りの娘の達観した一言。非常に日本的だった。
 「(嫁は)出て行かないわよ。だって得することがないもの」そこに外国的さくらの言葉「損得は愛じゃないでしょ」

 筆者も同じことを言って来たと思った。この欄にも何度か「便利さを満たすことを愛とは言わない」と書いて来た。この種の「本当に愛されず、だから本当に愛する事を知らないで育って来た」人に至るところで出くわす…教会での相談事であり、滝で出くわすいじけ模様であり、治療での治し方にである。
 つまり筆者の生きている世界のすべてに愛とは便利を満たすことだという錯覚があって、その錯覚に気づいてない為にトラブルを起こしていることが多いのだ。
 「あの人も親から真実愛されて育たなかった」と思うのが筆者の活動の姿で、筆者はその度に本当に悲しい事だと思う。
 話はとぶが、損得を愛に置き換えられることを分析すると、家の最優先が原因になっていると分かる。家の優先は国家の優先につながり、没個性の優先につながる。
 私達の身の回りでも、はっきり意見を言う人を我がままと考えたり、逆に自省する義務を忘れて言いたいことを言って自立していると考える人も多い。どちらも没個性への考えが不足している証拠なのだが。
 家最優先の価値観がどこに起因するのかといえば米作りだ。米作りの為には田圃が必要だからだ。
 「まず田ありき・動けない」から個人でなく家が優先されたのだ。はっきり物を言って争ったら田を失いいじめられるか引っ越していくしかなかった。それが日本人の考え方だった。だから日本人は争いを好まないと言うがそれは没個性の生き方の卑屈さでしかない。
 もの事をすべて明確にする必然はないし、まだ明確に出来ないのが人間だ。だからといって、まず田ありき、の価値観が現代に通用するものではない。米作りで国が成り立たせねばならないのは、北朝鮮以外になくなっていて、日本は北朝鮮にはなれないのだから、まず田ありきは捨てねばならないと思う。
 以上分析の正否はさておき、親から真実愛されて育たなかったことに話は戻る。夫は子や妻に豊かな生活を保証しようと頑張って愛と思う。また子や妻は保証されて愛を得たと思う…。愛の違いは幸せつまり人間の生き方の違いだ。
 童話に幸せ観の違いが見える。西洋は青い鳥の如く幸せは心にあり、日本人は鬼退治をした金銀財宝にある。この違いは大きい。何故ならば、金銀財宝で幸せが満ち足りた事がないのに日本人はこだわり続けるからだ。だからまた財産を自分の物と思う人が多い。だがそれは間違いで、たまたま自分に来た皆の物、が正しいのだ。
 まず田ありきは日本の伝統精神だが、残さなくても良い伝統もある。外国が正しいものでもない。要は実質の有無で、実質の有無とは自分への愛の強さで、自分への愛とは飽くまで一人の作業で、照らし合わせする根気そのものなのだ。

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