(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成14年8月号
 サッカーのワールドカップが終わった。 「日本人はやっぱ野球だろう」と言っていた筆者もワールドカップを見てサッカーは面白いと思った。が、だからといって日本のJリーグを見たいとは思わない。あれはワールドカップだったからだ。一流中の一流の選手達がやったから面白かったのだ。それにしてもあの馬鹿騒ぎは何だったのだろう。あれを正式には元気とは呼ばないし、ましてや愛国心とも言わないと思う。今回は日本監督のトルシエさんに感じた事を述べたい。それは自尊心についてだ。
 トルシエ不敗神話というのがある。初めて監督をしたチームの試合の事だった。チームは負けていた。 ふがいなさに立腹したトルシエは試合中にもかかわずキャプテンの胸倉をつかんで「お前の自尊心はどこにある。お前の自尊心はそんなものなのか」と罵倒した。そのとたんにチームは攻め出し試合に勝ち、その後の試合も連勝した。
 日本の監督になってもトルシエは熱かった。そう、自尊心は熱く生き感動を経ねば生まれないものなのだ。カメラの前でも彼は選手を罵倒しビンタを見舞った。代表に選ばれる力があるのに自らやめて行った選手もいた。今回の日本代表は皆が皆トルシエに暴力をふるわれた。熱さはトルシエが求める生き方であり暴力は選手への期待の表れだった。トルシエは監督である前に教育家だったのである。
 日本人に自尊心と言っても通じなかったと思う。自尊心という発想が希薄だからだ。自尊心を日本選手にどう意識させどう育てさせるか、その結論が暴力だった。
 言葉が通じないという事を筆者もよく経験した。「死ぬと思えば色々な雑なものが排除されて透き通った感覚になる。物事の本質はそこで自ずと見えて来る」と言った。その時「でも私は死ぬと思った経験がないから死ぬと思えないんです」と逆襲された。…透徹した価値観を持ちたいならこれから死ぬ事に眺めば良い…筆者はそれを言おうとして止めた。透徹した価値観と別世界で生きて来てそれを幸せに思っているのだからだ。元々普通(神の思し召しのまま)に生きてれば、死ぬ思いもしただろうし透徹した価値観も備わったはずなのだ。そんな普通でない幸せ観を否定しなければ死ぬ思いの擬似体験すらできないのだ。
 トルシエは選手達の生き方の否定と自尊心の育成のために暴力を用いた。言葉が通じないのだから仕方ない(ここで言う「言葉が通じない」とは日本語対フランス語ということでなく、自尊心という概念の希薄さを指す)。 なにしろ効率一辺倒の日本だから即効性に多くの価値が集中してしまう。その国民に自尊心と言うと多くの人は対面と間違って理解する。自尊心は生きる事への大きな熱がなければ育成されない。一方の体面に熱はいらない。自尊心を体面と誤解している人は実は人生と立場に背任を犯している。トルシエは暴力に負けた選手をそう位置付けた。
 トルシエの偉さは自尊心という発想を持たない人達に気付かせそして育成させた点だ。でもそれは本来が家庭の教育で行われるべきものだ。だが現代の家庭を見れば熱さどころか言い争いすらない家庭が多い。それを愛の無い家庭と言わないで愛に溢れた幸せな家庭と言う。夫婦で親子の間で阿(おもね)る事を愛と言うのだから自尊心という概念は生まれようがない。概念が無いから子供達に自尊心の大切さを説き育てさせられない。夫婦で親子で阿ねずいてこそ自尊心の存在に気付きそれを育成し熱く生きて行ける。夫婦で親子で阿ねないとは感動を共有することでもある。感動を共有できない親子夫婦はお互いの存在を認めてすらいない。阿ねるのは親子でも信頼していない証拠で、人生と立場への背任がある。…感動を共有できる御嶽登拝が間近になった。

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