(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成14年9月号
 御嶽の三十回記念登拝が終わった。足固めの講和の中で「登拝修行は実は普段の生活の発表会」と言った。 「初めて本音を言われましたね」と回りから言われた。滝の小屋では度々言っているが教会では初めて言った。でも筆者にすれば駆け引きなしの発言だった。
修行は普段の生活が出てくるだけで、普段を変えねばどんなに修行しても変わらないのだ。
 滝の会員は御嶽登拝の前四ヶ月は大変な努力をした。その努力が報われたかどうか…何よりも何を学んだのか…が問われる事だ。その四ヶ月間、教会は色々な取材を受けていた。週刊誌と東京のキーテレビ局だった。いわく「簡便な修行がブームになっているがおたくたちはどんな修行をやっているのか」というものだった。
 滝の会員は実感しているだろうが、修行というものは簡便でありようがない。手間暇かけて自分を相手にし続けて初めて形になり、その形を長い時間繰り返して結果が出る。「修行が普段の生活の発表会」の訳はここにある。
 確かに御嶽山は日本で唯一の霊格一等の山で、山中で光を浴びるだけで体内の細胞の太陽電池はパワーアップされる(人間のエネルギーは食物だが栄養素だけでなく食物の太陽電池を食べている)。 だから御嶽登拝はそれだけで得ができる。同様に滝にはマイナスイオンがふんだんにあって、それを受けるから健康になる(筆者は教祖譲りの滝理論を実践していて、それから見ればマイナスイオンの滝理論は極く一部の理屈でしかないのだが)。だから俺は得だ。然し例えば御嶽登拝をして心身が健康になる…それが何の意味を持つのか?。つまり簡便な事で得た結果に何の意味があるのか?である
 「実にくだらない」、筆者にすればその一言である。筆者の見方はどうあれ、マスコミは不見識のままに簡便な修行を取り上げた。
 簡便な修行があっても良い。だがそれは入門する時だけだ。第一に修行に限らず簡便な事で満足できないように人間の自意識はできている…と筆者は思っていたが、そうでもないのが現代人の多くの姿なのだった。
 自分がほとんど努力せずそのままの楽で都合良いポジションにいて、短時間で結果を得る事を恥とも思わないのが現代人の多くの姿だ。いやむしろ得してハッピーと思っている。筆者が他人を評しても意味ないが、楽して得してハッピーな姿は生き方の慚(はじ)でしかない。辛抱の足りない子を「世間知らず」と大人は言うが、楽して得してハッピーな姿は大人も子供も共通で、それは世間知らずなのではなくて「体験知らず・まっとう知らず」と言うべきなのだ。
 簡便であっても修行をしているのだから努力しているのだという趣きもあろうが、簡便は努力の簡便を意味するのだから努力したと言いたくても言えないし、簡便を努力と言うだけ普段が努力不足の生活をしている証拠なのだ。そんな人に限って簡便な修行でも感動したと言う…その程度のものが感動とは言えないのにだ。
 なんでそんなに簡便で即物的な物を求めるのか。健康も仕事も家庭も家族関係も、すべてが人間という不合理の固まりが原因なのだから即物的・簡便でありようがない。不合理を理解するには多数の経験が必要だし、多数の経験をするには悠久の時間が必要だ。せめて簡便が方便であると分かり、簡便がその道の入り口なのだと自覚できる人になりたいものだ。
 …滝で行者でもめったに行えぬ途方もない記録が出そうだ。一千回の滝打たれだ。田巻悦子さんの十三年間をかけた記録だ。回数より何を得たかが肝心な事だが、恐らく「何も得てない」と彼女は言うだろう。ひたすら生きる以外に何ものも価値がないことを十三年間で知っているからだ。

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