(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成15年10月号
  高校野球県代表決定戦の事だ。B高校のバッテリーは少年野球の優秀選手のまま成長していた。九回の事だ。B高校のピッチャーの表情が変わった。B校のピッチャーは負けが避けられないと知り、緊張が切れた。そして連続四球を出し自らマウンドを降りた。代わったピッチャーでその場を乗り切った。その裏B校の最後の攻撃の筈だった。ランナー二人が出た。ツーアウトだが二人が帰れば同点となる。打者は四番でキャプテンだ。B校にとって最大のチャンスである。なのにキャプテンたるや深呼吸を繰り返し、お守りにさわってばかりいた。既にプレッシャーに負けていた。絶対のチャンスなのにたった1回声を発しただけだった。「B校は負けた」と筆者は思った。案の定キャプテンは凡フライを打ち上げた。「あれが彼の精一杯だ」と筆者。ところがC校にエラーが出て同点となった。打ったキャプテンは一塁上で泣き本来泣くべきエラーしたC校のレフトは泣かなかった。
 大事な試合は最終盤になってB校選手の涙で停滞した。B校は既に緊張が切れていた。「負けて当たり前。勝ったとしても意味がない」と筆者はB校に思った。幸いというか結果はC校に凱歌が上がった。
 勝ち負けの前に、監督の指導というものを思った。アガる選手、負けを予感して気持ちが切れた選手がB校に多くいた。C校はエラーしても気持ちを切らさず目標をもち続けた。その違いが正当なる勝敗結果をもたらした。結果は何を鍛えたかの違いを表し、生き方に違いを表した。でもそれは選手の努力でなく、指導者の方向づけの違いである。この指導の方向づけの違いとは厳しい言い方をするがつまりがその指導者の生き方の違いなのである。
 普段の目線がどこにあるか、その違いである。エラーしても次に向けてエネルギーを蓄える事のできた選手、エラーしてもいないのにプレッシャーに負けた選手…。負けたB校もC校に劣らぬ猛練習をして来たはずだ。でも選手一人一人の精神の逞しさに大きな差が現れたのは事実だった。選手の精神を揉む事を第一にしたか否かだ。
 ハートを作るために猛練習をさせた監督と技術を磨くために猛練習させた監督の違いと言える。どんなにレベルが高くても技術なんてものは所詮は精神がノーマルでなければ発揮できない。高校球児らしい精神とか日本人らしい精神とかは問題外だ。それは教育に名を借りたまやかしだ。ハートと「らしい」精神などは全く関係しない。余談になるが高校野球だけが未だに坊主頭のスポーツである。坊主頭を高校生らしいとも思わない。思わないが「外にも高校野球があるが甲子園で高校野球をやりたければ坊主頭になれ」というルールのスポーツというのなら納得できる。だがそれを教育と錯覚する主催者に多くいる。「らしさ」を形で押し付け、熱さの生まれないものを教育と言うのは悲しい。
 話を戻すが、常に堂々として対処できる…ハートとはそういうものだ。だからハートはらしさなどではなくて、自分の生き方、個人の問題なのだ。そして自分の生き方、個人の問題である限り、指導者は痛みを個人的に嫌と言うほど味あわせねばならない。それが選手の言う県下一の猛練習と言うことだった。幸い結果も妥当に下された。だが結果が妥当でなくても選手のハートを作った事は残る。それが伝統というものになって行く。伝統は形の上では不合理に見える。不合理だから痛みがあるのであって痛みからしかハートは生まれない。合理に見えても痛みがなければ伝統にもならない。選手を丸坊主にして教育と言うように日本の伝統には、痛みがなくて従ってハートのない形だけのものも多くある。ハートの在り方をC校の監督は示してくれた。


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