(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成15年4月号
 タバコを止めるのに本数を減らす人がいる。覚めてみれば逆もまた真なのだから、有害さはタバコを止める理由にはならない。筆者は日に六十本は吸っていた。それを止めたから言うのではないが、やるかやらぬか二つしかないのが人生だ。本数を減らすという方法とやる・やらぬとはハナから無縁だ。問題はやる集中度つまり熱意こそあるのだ。今月はタバコを止める事を話すのではない。生きる熱意についてである。
 やるかやらぬかが問題なのに目標を果たすか否かを多くの人は問う。貧・病・争という人間の三大苦を救う宗教がいまだに存在し政治活動までしている。しかしどんなにその教団が頑張ろうと三大苦は人間の永遠のテーマであり続ける。かつて某文部大臣が「政治は宗教芸術などという刑而上世界の数段下層の世界の『人間性とは全く無関係』の世界である」と看破した。だが現実は人間性とは全く無関係の三大苦からの救済を目的にしている宗教があってしかも大勢力である。だが「永遠のテーマ」とは解決したって始まらない事と同義で、ただ甘んじて受け入れるものでしかない…
 某文部大臣ではないが、現実を救済するのは政治であって、仮に完璧に三大苦から救済できたって人間性の解放とは全く無関係である。この事は高度成長を遂げた我が国が一番知っているはずだ。高度成長で豊かさ便利さを手にしたがそれを味わえなかったではないか。味わうのは個人の作業だが、味わうという発想や味わう自分の責任さえ多くの人は持てなかった。
 実現させても何にもならない事に頑張るのは、生きる熱意の低さしか意味しない。そういえば、福祉の世界では「頑張れ」は禁句である。すでに精一杯頑張っているのだから、が禁句の理由である。
 でもそうだろうか…。そんな人は頑張っていても一番に保護されている事に気づいてない。ハンディと回りが認めればこそ精一杯の頑張りと言うのだ。避難を承知で言えば、絶対的ハンディを持ってない人ほど頑張れと言われたくないのが現実の姿だ。
 筆者のような根性曲がりは頑張れと言う気にもならないが、絶対的ハンディを持たない多くの人は「これ以上の努力は無理なのだから頑張れと言ってほしくない」と言う。頑張るという事は、元来が自分の人生の責任の問題でしかない。頑張りは回りから求められるものではなく、果たさねば歯軋りするほど悔しい我が人生への「義務」でしかない。我が人生への義務…それが生きる熱意の正体だ。
 一方、生きる熱意が小さい人は三大苦ですら解決しようとする。しかも自力でなく、制度とか他力でだ。そして他力による処理を解決と完璧に錯覚できてしまう。何より自分の人生が他力・犠牲の上に成り立っている事が分からない。
 他力で成り立っている事が分からないのは、頑張る方向づけが間違っているからだ。公人(立場)と私人(都合の良さ)の別が分からない人こそが、頑張る方向づけを間違う。その別が分からない人はやるべき事とやりたい事の区別がつかない。むしろやりたい事一色しかない。それが悲しいかな日本の高度成長の姿だった。
 大切な事は誰でも公人と私人の両面を持っている事だ。家庭にですら立場というものがある。立場は必ず不本意な姿で現れる。多くの人はやらねばならない事を恥ずかしいとか面倒だという理由でパスし良かったと思う。がその時だけの良さがやりたい事の実態だ。
 嫌でも立場を貫く…それがまともな頑張りというもので、自分への義務を果たしたという事で、どんなに不満足な結果でも安心と出会える快感を得る事でもあるのだ。
 自分との戦いが人生だ。だが生きる熱意の小さい人は他人や目標との戦いと考える。そんなものに勝っても意味を持たないのに、だ。





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