(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成15年5月号
 イラク問題だ。アメリカ嫌いは筆者だけでなかった。世界の多くがアメリカを嫌いだった。アメリカ嫌いが多くいて安心した。アメリカの主張する正義とはイコールアメリカの利益なのだから。
 今回はフランスが男を挙げた。反テロとか反核とかとアメリカはいうが言葉を変えれば南北問題となる。つまり先進国と後発国との対立だ。フランスはこの点を実は分かっているのだ。どれほど強く豊かな国になっても、共生という正義がないと地球は一発で破壊する、そんな時代になった。アメリカはそこを分かっていながら強さと豊さを押し出した。そして世界からのけ者にされた。共生の為には何かを捨てねばならないのだ。
 それはさて、日本である。全国に有名な新潟五区の「となりのおばさん」代議士でも外務大臣が勤まる国が日本である。今回も大きな失態だった。対米追従の外交だから仕方ない、あるいは日本はアメリカの植民地だから仕方ないというシラケた意見が多かった。日本の自主という点では全くその通りで、正解だ。憲法などは民定でなく進駐軍が定めたのだから、それも仕方ない。
 敗戦で日本はよいところをすべてアメリカによって捨てさせられたという意見がある。日本が再び実力をもったらアメリカが困るから、という理屈なのだ。だから腑抜けにさせられた戦後を否定して、戦前の日本に戻ろうという運動がそこここに見え出して来た。
 だが果たしてそうだろうか。戦前がよかったという根拠は何もない。ただ自立を押し付けられてない点で、戦前は立派だった。戦前は欣定憲法だが、欣定とは言え一種の民定憲法だ。だからなのか国家としての自主性は戦後よりあった様に筆者は思う。だがでは戦前の日本が自立していた国だったと言えるのか、というとそれも疑問だ。自立した国とは国民が自立しているという事だからだ。国民の自立という点で筆者は首を傾げる。
 教会の縄文研鑚倶楽部では毎年「鬼に会う旅」を催してる。この旅で思うのは、弥生人のセコさと自立性の無さの二つである。この二つは実は表裏一体である。このセコさが戦前戦後を通じ一貫してあって、そのセコさをもっていてこそ日本人と言うこともできる。
 筆者の主観でしかないがそれがとても恥ずかしいことに思える。そのセコさを「勤勉」とか「協調性」とか「争いを好まない」とか言ってるが、それは都合のよい言い表し方でしかないと筆者は思うセコさは弥生人の稲作万能のための「突出しない生き方」の知恵であって、だから弥生人には元々から自立という発想が少ない。だからこの国には革命が起きなかった。だから不合理なものを伝統と言い続けて疑問に思わないで来れた。すべてが約束事で、実質への照らし合わせをしないのだ。
 自立すればそこに一人一人の正義が現れる。正義とはその人の変わった点でもあるから、自立した人は皆変人である。なのに日本では心の時代と言いつつ現代でも突出を蔑む。また日本人は協調を最優先して合理へ進もうとしない。そして回りに迷惑をかける。ジャパンバッシングは当然とも言える話が戻るが、イラク問題で日本はアメリカ追従するがアメリカからは協力が足りないと言われる。それ以上にアメリカに反対した国々に呆れられる。なのに日本国内を見れば約束事としての「戦争反対」を多くの人が主張する。多くを巻き添えし悲惨だから戦争なのであって、悲惨だから戦争反対の次元では解決ならないのだ。ここにも自立性の欠如がある。優しければよいなどとは誰も決めてはいない。なのにそんな優しさが蔓延している。約束事で実体の無い優しさ・自己本位なのに、だ。アメリカの植民地に甘んじていても困るが、こんな状態で日本人が果たして自立に拘れるのだろうか。



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