(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成16年2月号
 ハルウララという競走馬が高知県にいる。五才の牝馬だ。この記事を書いている平成十五年の暮れ現在でこの牝馬は不名誉な百連敗を達成した、なのにハルウララは人気絶頂で、出走レースでの馬券では一番人気だ。
 なぜか…、それは弱いからだ。隣のゲートに強い馬が入ろうものならそれだけでビビって冷や汗さえ浮かべる。調教の人が場を離れると寂しくて泣き声を出す。そんな馬が出走してひたむきに走る。そのひたむきに観衆は共感を覚え観衆自らの励ましをこの馬からもらう…。弱いもののひたむきさだから観衆は共感を覚えるのだ。競馬馬は競争が本能なのだからひたむきというなら全ての競馬馬がひたむきと言える。ハルウララの人気は負けても出走することにあるだけなのだ。
 話は飛ぶが、滝で話をする内容を『弱者の理論』と筆者はいう。
まず自分の弱さを認め、受け入れその弱さに確信し安心しろ、と説く。社会には色々なセミナーがあるが、全てが『勝者の理論』であり『勝利者のなり方』である。セミナーに参加者を集めるには筆者のような弱者の理論を訴えるのでは無理だからで、セミナーは嘘でも即効勝利を訴えねばならない。
 だがそれはあり得ない。勝者の理論・勝利者のなり方には何も意味がない。簡単な事だが勝利者は常に圧倒的に少数で、最後の最後には地球でただ一人を意味するのだ。少数だから普遍性がなく、普遍性がないから達成感とか満足感とかいう一面の真理しか見出せない。つまり仮に勝者になることができても、勝者という存在がハナから価値を持っていないのだ。セミナーが謳う勝者というものを信じられる事が、実は大変な異常事なのだと気付かねばならない。だが多くの参加者はカリキュラム達成の満足を得、その満足で異常事である事に盲てしまう。
 さてハルウララである。この馬に声援を送る人は実は自分を励ましている。滝で言う事だが、結果果は運に基づく。運には誕生時に授かってきた能力も含まれる。能力は才能と違うからどんなに頑張っても能力のままで才能にはならない。才能も能力の一種だが、才能を授かってない人は才能を開発してみようがない。観衆は運と能力に恵まれないハルウララに結果を出せない自分をダブらせる。だからハルウララのひたむきさに共感を覚える。ひたむきさとは運と能力に恵まれない人だけのものではないのに、だ。
 そのひたむきさである。ひたむきである事はそれがどんなに敗者であっても、回りの人を励ますことができる。回りへの影響はどうでも良いが、ひたむきは誰にでもできるしそれがダサイと言われようと自分自身には快感でもある。
 ハルウララに共感をするのは自らにひたむきの能力があるからなのだ。だから大事はこの馬を応援する事ではなく、自分のひたむきの能力を磨くことにある。
 ハルウララがひたむきなのではない。ハルウララは他の馬と同じに競馬馬の本能のままで走っているに過ぎない。ひたむきなのは負けても負けても走らせるこの馬の調教師なのだ。勝てない馬は殺して当然の世界で馬を大事にしているのだ。ではひたむきとは何か。
 この調教師は自分の都合を捨て思いを優先している。その思いは間違っているのかもしれない。それでもその思いは自分にとって「ねば」ならないことなのだ。ひたむきとは自分の都合を捨て、ねばならない思いに一途になる事で、ねばならない思いを確信しているのではないからだ。だから、ねばならない思いが間違っていても必ず得るものがある。得るものとは安心に近づく事だ。何も犠牲を払わず得られるものなどない。だが犠牲を払わず結果を得る事を現代では得と言い幸せという。そしてひたむきを忘れ安心から遠ざかる。





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