(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成17年3月号
  寒篭りが終わった。今年は十一泊滝打たれ二四回設定中、六泊十回がノルマだった。暖冬傾向にもかかわらず、最低気温はマイナスが続いた。その意味では結構厳しい冬と言えた。今回は滝打たれと共に「神霊場参拝祝詞」写本と礼儀作法の徹底がメインだった。
 礼儀作法については、細かい所作の統一を試みた。所作には例えば足の進め方の原則である『進下退上』や進退の緩急の原則の『進緩退急』や持ち方の原則の『三段三持』など色々とある。その原則の徹底を目指した。
 滝打たれという修行と所作の体得という二つを寒篭り期間の三五日間を通して行った。その結果、男と女の違いを改めて思った。
 いわゆる霊山は昔から女人禁制だった。女はなかなか修行が身につかないというのが禁制の理由だった。対して男は修行を身につけられる…男女の優劣を言うのではない。男女が根本的に違い、だから世の中が保たれて来たと言いたいのだ。その男女差が近世、男の女性化で世の中を変質させて、どうにも世の中を悪くしている。豊かな社会ほど男は女と別の目線で生きねばならないのに、だ。
 女の行動原理は刹那で、それが自己満足に変質して行く。「子供のためになら何でも出来る」と良く聞くがその意味は子のためにではなく、満足する自分の為に子が必要なのだ。だから自分の言うことを聞かない子供は悪い子として平気で切り捨てる。子供社会での最大のイジメである「無視」や学校での「落ちこぼれ」は実は母親が子育ての中でやって来たのだ。
 子育てとは躊躇していたら子が死ぬ場合もあるから論理的ではなく刹那的なものだ。刹那的と自己満足とは大きく違うのだが主観による判断という点では同じだ。主観による判断が自己満足に変わるそれが女と言える。
 寒篭りでも女の行動原理である満足は修行の邪魔をした。それはそうで、修行と満足とは全く別で元来は対立するものなのだ。満足が行動基本だから不満足だと行動しない、あるいは渋々の行動をして集中をしない。だから行動が終われば良かったか悪かったかしかなくて、次回につなげる反省が少ない。男だったら不満足でも集中して行動する。だから少なくても同じ失敗をしない反省ができる。何より次も不満足な行動をしなければならない事に異存がない。だから女には「滝はイヤなことだから続けられる」という主張が届かない。滝であれ何であれ続けられる理由は「好きだから」であり好きでないものはやらないに限るとする。話すことでもそうで、女性は自分が満足する為に話すし、男は考えを伝える為に話す。女の話は満足する為のもので快いから、私語をした場合作業する手がお休みするし他人を故意に傷つけても自分の気持ちのままの話をして満足する。一方男の話には満足が伴わないから手が休まらないし、思いを伝える事が目的だから他人を故意に傷つけない。子でも夫でも母親や妻の言葉でやる気を無くさせられる事が多いが、女にはそれが分からない。自分が満足しているのだからやる気を無くす事が分からない。仕事にしても女は満足基本だから「求められている・ねばらない」仕事ができない。時間や束縛などお構いなしに「気の済む」事をする。
 修行にもそれが出る。女の行動基準が満足=個人的嗜好だと自覚できない女は荒行の満足で終わる。
 日常は不満足をベースに神が作ってある。だからこれを満足に変える必要はない。日常生活の不満足が女の刹那の生き方を満足の生き方に変えて来た。男が女と別の目線で生きて来たのは女のその目線と対立させんが為だからだ。だが男の女性化は日常を満足化させた。それでは社会が悪くなるし自立ができなくなる。自立は自分の男化から始まりそれが修行なのだ。







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