(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成17年8月号
 NHK朝の連続ドラマ「ファイト」の反響が大きいらしい。視聴率はそれほどでもないらしいが、ドラマで起きる出来事が現実そのもので、ドラマ放送によくある非現実性が少ない。だから「わたしも同じ問題を抱えて悩んでいる・悩んでいた」と投書する人が多いらしい。「役者は下手だが立派な台本」と以前筆者はこの欄で書いたが、同じ事を多くの人が思っているようだ。この際訂正をさせてもらうなら、主役の本仮屋ユイカは話をする間が良く、うまい役者なのかもと思ったりしている。
 さて反響の大きいドラマであるが、生きるということは、明確に言えば自ら「頑張る」事なのである。ここに気付かねばならない。宗教も哲学も自己啓発も「頑張れ」という言葉を使わずしつつ、頑張らせる役割でしかない。頑張れと言わずに頑張らせるのは、頑張ることが生きることの裏返しだからだ。当然の事でしかないのだが回りの無理解・疎外から孤立している人は、もっと頑張ろう気持ちが弱わってしまい勝ちだ。だから宗教も哲学も自己啓発も当たり前の自分が「頑張る」・自分しか頑張れない事を遠回しに然も言葉を変えて説かざるを得なくなる。その意味では宗教も哲学も自己啓発も嘘をつく仕事と言える。
 翻って現代社会を見ると、「頑張れ」は禁句になっているのである。「頑張っているのになぜこれ以上頑張らねばならないのか」と反論する。反論された側は仕方無いから「頑張れ」とは言わず別の言葉で努力を求めざるを得ない。(もっとも反論された側が指摘すべきは頑張る頑張らないの問題ではなく、より正解に近い具体的方法、ではある)。
 この「頑張れ」を避けた表現に阪神大震災の「頑張ろう神戸」があり、最近では「頑張ろう新潟」がある。地震という災害に遭って頑張っているのだから更に頑張れと言うにのは薄情だという考え方による。でも頑張るのは個人の生き方の裏返しでしかない。つまり頑張るのは誕生した以上、当然の事なのだ。地震だから頑張れず、自分の興味のあることなら頑張れるという事があるとしたら、それこそ最大の我がままなのだ。誕生した以上、自分の意思とは無関係でただ頑張るだけなのだ。
 但し、結果を出すために頑張るのは間違いで、それも我がままなのだ。そうでは無く、今を生きる為に頑張るのだ。その繰り返しで自分らしい自分の発見に至る。だから頑張る事は本来すごく楽しい事で悲惨なことではないのだ。
 人生の発見への第一歩は、充実の楽しさを知ることだ。充実の楽しさは人生最大の喜びでもあるが、その充実の積み重ねの果てに自己の確立が達成される。自己の確立・自己の味わい(自立)が人生の最終目標であってなかなか難しいが、そこに到達できなくても充実させる「経過」は人生を楽しくさせる。それで人生はある種十分とも言えるのだ。
 ところが、頑張る事に拒否を示す人の多くはこの「経過を充実させる」ことが見えていないのである。だから「私は既に頑張っている」と居直る。頑張るのは当たり前のことで、頑張る方向の間違いを正せば良いのに、そこまで話がいかないで終わらせる。
 頑張るとは今を充実させる努力を言い、嫌いであれ不慮なことであれ、巡り来た現実を自分で選ばずにただただ充実させることだ。それは自分と戦わねばできない。
 頑張る・充実にはドラマの題名のファイトは間違いで、バトル・戦いが正しい。当然にバトルの対象は社会や目標ではなく、若くても老いても単純に自分・自分の命である。バトルを見ようとせず避ける人が多いが、バトルなくして充実はあり得ない。自分と戦うから人生は素晴らしくなる。頑張ろうの人生ではタカがしれている。
 滝でバトルを自己破壊という。





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