(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成18年1月号
  ケアハウスを開設して六年が経過した。高齢者は反応が豊かで色々な事を巻き起こす。長い間に経験した事からの反応だからおもしろくもあり悲しくもある。神が一人一人に同じ体験というハードルをセットされなかったためと、セットされたハードルを故意にパスしたためだ。そんな六年間でいつも思って来たことがある。それは『自立』ということである。
 自立が意識にない入居者は自分の思いの満たされない事を回りのせいにし続け、いつになってもそんな思いの処理ができない。だからどんなに世話を焼いても感謝なぞしない。自立を意識せず高齢になった人に自立などと言っても通用しようがない。その意味でケアハウスは現代社会そのものだ。
 宗教上の悟りとは安心して生きる事で、安心とは結局は自立できるかどうか、でもある。だから自立は教会のテーマでもある。
 人間は悟らねばならないが悟れない。悟れたら人間ではない。だから自立は架空とも言える。が架空であれ理想であれ、自分をそこへ導かねば自分を失ってしまう。自分を失っては人生が成立しない。
喜怒哀楽をしっかり感じる自分があってこそ人生なのだ。
 人間が財産を所有して以来、経済的に自立を果たした人は結構といた。だが経済的自立とここで言う(人間本来の)自立とはまったく別だ。本来の自立のほんの一部に経済的があるからだ。経済的に自立しなければ本来の自立はならないが、本来の自立を果たした人には経済的自立などはどうでも良い。「幸せを積み重ねても大きな幸せ(安心)には至らない。幸せの積み重ねは豊かさに貢献するが豊かさと安心は全く別次元」なのだ。
 私たちの多くは経済的な自立だけで人生の責任を果たしたかの錯覚をもっている。人を使う立場になって人間性も高くなったと錯覚している社長は多いし、社長という肩書きでその人間性を見失う人も多い。社長なんぞ運だけでもなれるし経済力で買う事もできる社会体制なのに、だ。
 比較して満足する価値観こそ自立できてない証拠だ。本来の自立をした人に経済的な自立がどうでもよくなる理由は、確信した価値観をもつからなのだ。
 なのに現実は経済を助けてもらって愛だ自立だと錯覚する。孫に蓄えてきた年金を与えてよい孫親たらんとする人…孫も良い爺々婆々と呼ぶ。だが正確には「都合良い爺々婆々」でしかない。回りの関心を引く為に年金を使う姿は悲しさそのものだ。だが多くはそれで良い人と評価され、その評価に満足している。家事援助する夫を良い夫と呼ぶ。家事援助しない為に離婚される夫も多い。つまり家事援助が愛情なのだ。しかしそうだろうか?。家事が女のものとは考えないが、妻の努力不足を夫に転化している事も多い。逆に家事は女のものとして疑問に思わない妻も多い。家事が夫に保護してもらう事の代償なのだ。それも悲しい。
 子育ても男女平等と宣う人になるともはや問題外だ。子育ての女性しかできない部分が苦痛だと言われたら子育てではなくなる。性差の苦労に胸を張れず逃げている事が分からないのは回りが悲劇だ。
 便利と自立とは無関係なのに人生の目線を便利だけにおく…。自立の意義の分からない人には、本当に愛されて育っていない共通項がある。親や回りから受けて来た愛情を打算と言い換えた方が良いのだ。そんな育ち方をさせられたのだ。だがそんな事を理由にしても意味がない。人間は皆まともな環境で育っていないのだ。要は理由ではなく、自立を目指すかどうか、意欲の問題なのだ。
 自立は人間の永遠のテーマだから年齢に関係しない。が、それができなくても自立を意識した者は安心して生きられる。安心なくして自分は存在しないのだから。

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