(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成18年2月号
 昨年は見たくない事件がいっぱい起きた。見たくない理由は私情を優先して自分の立場を忘れた事件だったからだ。新潟では最後の締めくくりに大停電が起きた。
 「子供達が風邪を引くと悪いので休園にしましたから迎えに来て下さい」と連絡した保育園がしかも相当数あったという。停電で信号が点かず交通渋滞を起こし、勤務先も混乱しているのにだ。『子供さんの事は心配しないで頑張って下さい』と言うべきなのだ。
 …信号が灯かないから警官が主要な交差点で交通整理をしている筈になっていた。だが組んだ二人が交差点の端に佇んでいた。ビールのケースに立てば一人で済む。そうすれば、もう一人は別の交差点で交通整理ができ交通渋滞は少しは緩和できるのに…。
 …「お客様一人に職員一人がついて回ります」というスーパーがあった。客の万引きを監視するためなのだ。あるコンビニのように「暗いところすみません。ゆっくり商品をさがしてお買い求め下さい」と言うべきなのだ。そんな侮辱を受けているのに客は黙って従っていた。どうなっているのだ。
 ある市役所では休みの職員に自宅待機を命じたままだった。即刻出勤せよとなぜ言わなかったのだろう。
 非常時には普段が表れる。よく言う事だが、普段できない事はここ一番でできない。つまり停電という非常時に普段の仕事への取り組み方が表れたのだった。保母、警官、店長、役人…世の中の中心たる人の多くがこのていたらくだった。これもよく言うことだが、この程度の資質しか持たない人が社会の中心にいて社会を仕切っている…これは困った事だ。現代社会の閉塞感の要因はここにある。
 普段が太平楽なのだ。彼らは生存競争のある種の勝者である。知識は痛みというが彼ら勝者は痛みを知らない。痛みを知らない人は社会のリーダーどころか、社会の仕切り役にすらなり得ないのに、だ。行政改革の前に、資質ある人がリーダーになれるよう社会システムを見直すべきだ。
 価値ある人が仕切り、その人と共に行動する喜びが会社や役所にあるだろうか…無いから会社の職員に「何だかんだ言っても、どうせ社長ばかり良い思いをするのだ」と言わせる。それだけ言行不一致の人が仕切り役をしているのが現実である。現代社会の閉塞感はここにある。若者に金銭とか達成感からではなく「やりがい・貢献」から労働意欲を教えられない…悲しいがそれが現実なのだ。
 マニュアルや規則や順守することが仕事だと思っている人は現実に多くいる。順守することに大まじめでいる人も多い。だがそうだろうか?マニュアルなんぞは非常時には崩してこそ価値がある。想定通りに事件が起きるなら、そんな事件は未然に防げる。つまり未然に防げないのはマニュアルが不備だからで、事件が起きた時点でそのマニュアルでは事件に対応してみようがないのだ。こんな事は現場にいれば如実に分かることだ。だが管理す(仕切)る人はマニュアル通りの処理をする。
 だから無意味となる。例えば停電の場合の保育園だったら、子供に預かっている服を着せ、それでも寒かったらお昼寝の布団に入らせる。それでも寒かったら大勢固まって布団にいる…、妥当であろうとあるまいと、それが帰宅させるより正しく、かつ次善の策だ。
 現代で管理する人は一歩踏み込んで考えず規則を守って終わる。次善の策と規則を守るのとは全く意味が違う。普段が一歩踏み込まなくても良いからその違いが分からない。一歩踏み込むとは今やるべきをやると同義だ。踏み込めないのは現実が見えてないからだ。
 現実は非常時の連続だ。だから常に一歩踏み込んで考えねばならない。それが使命を果たすと言う事だし、生きていく快感なのだ。
 






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