(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成18年4月号
 トリノオリンピックについて。今回は心の強さが問われ、その強い順でメダルが決まった大会だった。だから日本は総崩れだった。「あんなのは税金泥棒ですよ」と日本選手のふがいなさに憤慨して言う人がいた。「でも頑張ってきた人の発表会の費用を国で持ってやったって、それはご褒美でしょうが」筆者。すると「メダルも取れず、たとえメダルのに届かなくても、どこが頑張って来たと言えるんですか。ご褒美を上げても良い選手が何人いましたか」と問い詰められると、JOCの役員でもない筆者だがなんとなく謝った。
 確かに物事は結果を問うものではない。我々がオリンピックを見て心動かされるのは、出来ない事をやれる演技よりも選手の一生懸命さのなのだ。一生懸命は見る人に感銘を与える。見ている人が共にドキドキし悔しがり涙を浮かべる・・・。大ざっぱに言えば見る人が泣こうが笑おうが、一所懸命を見ることが気持ちの良いことなのだ。だからオリンピックを始めスポーツを見ようとする。だから日本では高校野球がプロ野球より人気があるのだ。
 蛇足だが、滝打たれも見る側がつらい。打たれる側はつらさは当然としているし亡我であれ無我であれ何であれ、自分のやることで精一杯で何も考えていられない。その滝打たれを見る側は何のアクションを起こす訳でないから一層厳しい。でも辛いが我々の一所懸命な姿を見ると心は動く。いろいろなプレッシャーを感じても、心動く事は気持ちが良く、勇気が沸くのだ。
 ついでに言えば、一所懸命な姿を見て心動く人は自分も一所懸命になれば良い。それが気持ちの良いことなのだから。いやそうではなく、自分が一所懸命にならなねば気持ち良さを得られないのだ。だから滝に打たれろ、ではなく、だから実社会で一所懸命の気持ちを自ら作りださねばならないのだ。
 話を戻すが、確かに今回の日本選手は総じて心が弱かった。中でも新しい競技の選手は心の鍛練不足で、負けて当然と思えた。
 JOCはメダル獲得予想を何を以ってやったのか?。筆者のような素人でも「あんなハートの状態ではだめ」と見えていた。運良く極めて幸いにメダルが手に入ることがあるかも・・・と思った。だがやはり現実は正直で奇跡の存在することを認めなかった。甘く弱い心は無視され切り捨てられて当然と外人選手の心の強さは暗に言っていた。
 問題は気持ちよさを与えてくれたのが外人選手という事にある。筆者の凡庸な目でも、日本が強い心を持つのにはまだ何年も要さざるを得ないと思う。殊に新しい競技は日本人の心の状態を良く表していたと思う。新しくだから競技者が弱く甘い心でも結果をもらえる・・・ただそれだけなのだ。だから強い心の選手が出場すると競技レベルが格段に違う・・・JOC自体がここに着眼できない・・・結果オーライ主義で、その結果というものが経過を一所懸命に踏まねば出せないことを知らない。経過や一所懸命の無視はホリエモンの様な虚業家が実社会に多い事でも、良く分かるのだ。それが現代日本だ。
 心は休むと弱くなる。弱くなるとは気持ちが良くないのと同じ意味だ。心がつよくあるべきなのは、それが気持ち良いという事であり、気持ち良いという事は自分らしいと言うことだからで、自分らしいという事は人生を全うするという最高の価値なのだ。気持ちよい事が楽なことだと多くの人が考えている事は現代社会が病んでいる証拠だ。
 ふだんをオーソドックスに堂々と生きているからトレーニングも一所懸命できる・・・。滝だけ打たれたって何も変わらない、と筆者が言う理由はここにある。満足やこだわりを基準に生活する限り自分の心は動かないし結局気持ちが良くない。人生は爽快感に満ち満ちているのだから、今を選ばず一所懸命であればすれさえ良いのだ。


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