(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成18年9月号
 秋田の子供二人を殺した事件は悲しすぎた。二人の子の死も悲しいが、犯人である畠山鈴香容疑者の人生が何よりも悲しい。筆者は彼女を人格破綻者と考えるが人格を破綻させて生きるのは悲惨だ。

 だから彼女も被害者であると筆者は言う。母親から愛されずに育ったから社会性を持てず、だから人格破綻者となった。母親からの愛情不足の被害者なのだ、と。

 「愛情不足の被害者ならば殺人を犯してもよいのですか。皆が愛情不足で育って来たのではありませんか」と問われた。正論で返事もなかった。

 鈴香容疑者だけではなく、私たちも母親からは母親の都合で愛されて育って来た。それほどに母親に心から愛されて育って来てはいない。明確に言えば皆が皆、母親からの愛情不足の中で育って来たのだ。そして私達だけでなくその親も、またその親も、なのである。

 子は家庭からしか学ばない。そして子は親の前で精一杯背伸びをしてよい子になろうとする…それが子供の習性なのだ。だから順応し、成長もして行く。

 しかしそうやって精一杯背伸びをしても、その子自体は母親の都合でよい子であったり悪い子であったりされて来た。親の都合がよければその時はよい子であって都合に適わなければ悪い子だった。人間はかくあるべき、という基準で子の善しあしを判断し、教えて来た訳ではなかった。

 個人という価値観を持ってはならない(持つことを知らない)日本人の愛情とはそんなものでしかなかったし、現代でも家を重んじる親にあってはそれが男親であれ女親であれ、そんなものでしかない。親が子を、子が親を心から慈しむという感性より、家の維持という価値観が何百倍も重かったのだ。稲作文化とはそういうものだった。

 毎年の登山講の足固めの講話では『女人堂』について話をする。その話では、母性とは決して優しいものではなく元々から無原則にできているものだ、と説く。原則から遠い存在だから悟り難いとも説く。また無原則とは逞しさでもある。子を守るとは無原則を貫くという事である。原則を守っていたら子供の命は絶えてしまう。だが無原則は生き延びるためであって、自分本位を満たすためではない。つまり子を育てるには無原則であってはならないのだ。

 この事が混同されると大変な事になる。無原則とは正しさとか理想とかいう原則とは無縁な満足を意味する。母親は満足できるから子を守れる。満足できない場合は悪い子にするし、子を守る事より自分の都合を優先できる。悪い事に満足は現実を見えなくするから子を育ててない事が見えない。

 鈴香容疑者の母親は子の為に料理を作らなかった。風呂も沸かさなかった。自分の健康状態や都合が先立って、それらを満たすことが優先された。満ち足りた母親には子の表情が見えなかった。

 それでも鈴香容疑者も殺された彩香ちゃんも母親を嫌いとは言わなかったという。子は母親の愛情を得たいがために精一杯背伸びをして、あるべき姿の子ではなく母親の満足する子になろうとする。

 教会で離婚の相談をする人の多くは「悩んでいては子の為にならない。だから離婚せねば」というが、それが親の勝手な満足とは思っていない。親が満足するためにその理由づけとして子を出して来るだけなのだ。子の為に離婚しないのが正しいとも思わないが、子を離婚の理由にできる母親の愛情のなさを見ると、それが母性だものと納得させられてしまう。

 子を自分の持ち物にし、自分の思うように都合良く扱って満足する…。子は守れても育ててはいない。困ったことにそんな母親に似て満足を基準にする父親が増えている。父親が女性化したら社会は片輪にしか育たないのに、だ。

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