(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成19年10月号

 二四時間テレビを放送する民放キー局が二局ある。そして人間の奇跡を放じ、それを感動と表現するのが共通している。台本のしっかりしてない番組はつまらない。二四時間テレビは生放送だからリハーサルを何度も行うような台本はない。それでも多くの若者がこの番組を見る不思議さがある。
 筆者はそんな番組を苦々しく思っている。「オレは二四時間テレビが嫌いだから出演しない」とは北野たけしの弁である。…大勢があの番組の独善のまやかしに気づかねばならないと筆者は思う。
 今年は萩本欽一がマラソンを走る役だった。笑いにもならない馴れ合を笑いと称して来たのが欽ちゃんだ。はっきり言えば相方の坂上二郎をいじめて、二郎さんのリアクションで笑いをとってきただけの人だ。コンビを解消してからも欽ちゃんにはナアナアの笑いしかなかった。毒もないナアナアの笑いが受け入れられたのは、企画がおもしろかったからなのだが。
 そんなナアナア欽ちゃんが二四時間をかけて恒例の百キロではなく五七キロ走を走る事になった。だが五七キロを二四時間で割ったって時速二キロ半、八時間の睡眠時間を差し引いて十六時間だって時速三キロ半強だ。今年は初めからナアナアだった。
 やっぱり、そんなもんだった。ほとんど歩いたのに時間内に歩き切れなかった。この番組のナアナアほのぼのさは欽ちゃんのそれと同一だった。なのにその姿に感動したという人が結構数いた。番組で寄付を集め、障害のある人の奮闘を見て勇気をもらい感動した…なんであの程度で心が動くのか、あの程度の社会参加で善行をしたと思えるとしたら、それは悲しい。
 総論から言えば浄財集めは正しい。少なくとも間違いではない。だが二四時間テレビのナアナアほのぼのまで行くと正しいとは言えない。だが総論は正しいから、北野たけしの様に「好き嫌い」という異次元で反意を表すのが精一杯となる。ナアナアほのぼのを正義の様に映しそれに参加する事が正しいという姿勢こそが問題なのだ。
 一円玉を貯金しておいて寄付をする人が褒められ、その時財布からなけなしの五千円を寄付する人の価値が低く見られる。お揃いのTシャツを着て寄付の受付係をしていたが、一切を準備したのはテレビ局である。出来ることだけやってもボランティアだと言える不思議。時速三キロ半で顔を歪めて歩いている姿を見て、勇気をもらったと思える不思議…。「しっかり準備をしないからそうなのだ。ダメならもっと早くに代わればよかったのだ」と筆者は思う。本来は万全を尽くし切った者だけに捧げられる称賛というものが、ナアナア行動でも捧げられる不思議… そんな事は絶対に真実の姿ではない。だがそんな人がこの国には多くいる。昨年の夏、そんなまやかしにオバさんと女性化した男性が賛同をした選挙があって、ある党が圧勝した。その為に極端な格差社会になった。今、そんな格差を苦痛として一番訴えているのはまやかしを見抜けなかったオバさんと女性化した男性である。
 それ以上に問題にすべきは、それが真実でないと知りながら称賛に異を唱えぬ人達なのだ。
 
はっきりと自分の考えを言えないのは現代社会の故ではなく、稲作文化そのものだからだ。この稲作文化は現代には廃れて当然だ。なのに、若者が明確に受け継いで本音を隠しての称賛に同調している。それで良いのかと思う。そんなヤワな事が人間の優しさのはずが無いし、そんな優しさに価値はない。人間の優しさは摂理だ。摂理である以上、厳しい。厳しさの無い優しさはまやかしである。
 厳しさを知らぬ者は原理を知らない。原理を知らない者はナアナアほのぼのを優しさと信じ込む
かくして二四時間テレビは毎年高視聴率を稼ぐのだ。


   


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