(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成19年3月号

 親が子に甘い時代である。だがそれは親の生きる目線が間違っている事とわが子を真実愛しく思ってない事の証明でしかない。
 ある有名なタレントがエッセーに書いていた事である。このタレントが子連れで新幹線に乗った。子供がやかましくして回りの人に注意された。注意された事への感想が「昔の大人は優しかった」であった。 昔の大人が優しかろうが厳しかろうがそんな事はどうでもよい事で、注意された事に対しては謝ることが第一だ。それを叱った人が優しくないと宣う…自分の家とよその家の違いも分かっていない。それに気づかないこのタレントのそんな心が情けないと筆者は思う。
 またこんな場合に、回りが言わない内に「隣に座っているおじさんに叱られるから静かにしなさい」などと言う人も多く見かける。周りの人を悪人にして、自分はよい親でいようとする。
  注意する人が優しくなくて悪い人、注意しない親は優しくて良い人という図式は完全に間違いなのだが、親は子から孤立したくないのか、躾ることを忘れて良い親でいようとする(そんな親は、社会にあっても孤立を恐れている)。
 子の人格形成を思えば、その時理解されなくても正論を教えねばならない。正論を教える事について言えば社会生活も知らない就学前の幼児に駄目な理由を理屈で説いて、それを優しさだと錯覚している親も多い。だから子は理屈として知識を増やすが躾が伴なって行かない。躾が伴わないと辛抱や我慢や恥ずかしさや気まずさという、駄目という事そのものが分からない。つまり理屈の正否ではなく駄目だから駄目、が駄目の正体であってそれが躾であり子を心から慈しんでいるという事なのだ。
 対して理屈で済まそうとする親には子の人格という目線はない。今を都合よくという思いしかない。
 が子に甘いとは言うが厳密に言えば甘いのではなく、自分の甘さを押し付けているだけなのだ。殊に自分勝手が目に余る母親が増えているように思う。そしてこの自分勝手さは、孤立というような面倒臭いことを省略する事によってが生まれるように思う。 嫁いだ娘に里帰りを強いて、嫁の親の努めを果たして満足するする母親は多いし娘も婿の実家で気を使うより楽だ。嫁も娘も年に一回のこの主役の座を待ち望んでいるのだ。そして帰る時には車の後部が下がるほどに土産をもって帰らす。だが、何の為に…。多くは婿さんの実家の事など考えてない。嫁の親としての努めを果たす事で親の心だけを満たしているに過ぎない。
 筆者がよく書くことだが、離婚相談に来た人に離婚しても始まらない、と話すと、最後は「このままでは子供がかわいそうだから離婚する」と言う。子供を引き合いに出すが、要するに本人が早く離婚したいのである。離婚して面倒な事から離れたい…その一心で最後に子供の為にと宣う。もっとすごい人になると「子供に聞いたら子供も離婚に賛成と言った」と言う。その子を呼んで問いただせば「本当は離婚はしないでほしい」という。
 要するに面倒なのだ。相手が悪かろうが自分が悪かろうが、そんな事はどうでもよく、早く楽になれればよいだけなのだ。
 このように、…べき事を知らずやりたい事しか解らないのは切ない。世の中はやるべき事・不本意の連続なのだ。百の内の九十九は不都合で出来ている。その九十九はやるべき事で、だからこそ不都合で面倒なのだ。その面倒を踏まず、自分の満足に向かって直線的に走ってしまう。直線的だから最短距離となる。だから、思いを実現させるのに一番早い。例え直線的に走る事が一番難儀であったとしても、一番早いのには変わらない。
 
子に甘い親は直線的で待つ事を知らない。そして子に甘い親は子の人格など考えていない。

 
   

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