(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成20年4月号

 吾亦紅(ワレモコウ)という唄がヒットしている。昨年末の紅白歌合戦に選ばれてブレイクした。
 『盆の休みに帰えらなかった オレの杜撰さ嘆いているか あなたに謝りたくて 仕事に名を借りたごぶさた』『小さな街に嫁いで生きて ここしか知らない人だった それでも母を生き切った オレあなたが羨ましいよ あなたは家族も遠く 気強く寂しさを堪えた あなたの見えない傷が 身に染みて行く やっと手が届く』『親の事など気遣う暇に 後で恥じない自分を生きろ あなたの形見の言葉 守れた試しさえないけど』という詞である。
 この唄は団塊の世代が親不孝を思い、親不孝を共通のものとして自分の励ましにする唄だからヒットしたと評されている。
 しかしなぜか筆者はこの唄に情けない思いを感じる。親を思う気持ちはそんなものなのか…その程度なのか…という思いがあるからだ。はっきり言えば、情緒の世界でしか親を思えない程度なのにそれが良い事のように評価されている事に疑問を感じるのだ。そんなものを優しさと理解する事は、どうしてもつらく思える。
 死は、残った人が丁度良く美化してくれる。死は個人的にしか訪れないが、回りではうまく辻褄合わせをしてくれて、どんなに馬鹿な事をやった人でも死んだとたんに神様仏様の立場へ回りが持って行く…。死んだ人の正当な評価は関係なく、回りが勝手に神様仏様にする。そして回りの価値観で死者の神様仏様の安っぽさが決まる。
 生き切ったという価値はどんな悪人にでもついて回る、誰も否定できない立派な価値ではある。だがそれ以外で、親を必要以上に偉く思い自分の親不孝を思う人は、概して親の世話をしなかった人に多い。親の死に水を取った人にはそんな甘い感傷など持てようがない。極
端に言えば、自らの命と親の看護介護を天秤にかけて「早く死んでくれないか」と思いつつ親の世話にあたっている。親が死んだ場合に、早い死を望んだ自分の心の汚さとか仕方なかったという思いとかが残って、とても親を美化したり思い出に浸ったりする思いにはなれないのだ。
 筆者のやっている高齢者の施設でも、親の人権などというものを主張をするのは親の世話をしなかった人・看ないで済む人に多い。普段面倒をみてない分過分な要求をし、親そのものの満足ではなくこの唄のように自分の思いだけを満たして満足し、それをして親孝行と納得するようだ。
 親の面倒をみている人は、自分の命と精神のギリギリをかけているから、施設に多くの注文をしない。それは施設におもねる為ではなく、施設として出来ることに限界があることを自分の体験上知っているからだ。それでなくても、自宅で介護看護できない思いで自分が苛まれている…。そんな人には過去の親不幸を取り出して、自分の励ましとする考え方は浮かばない。
 団塊の世代というが、過去の親不幸を自分達の励ましとするような感傷的な優しさでは困る。現代は優しさ万能である。だが現代の優しさとはその時だけ優しさである。その時優しければ良いというは生き方が刹那で、だれの為にもならない。そんなだれの為にもならない優しさを時として愛と称する人がいて、残念な事にそんな人が結構な割合にもなっている。
 優しさには摂理が必要である。自分が生きるために時として看護する人の死を望まざるを得ない…比べればその残酷さの方がかえって優しいと言える。その優しさが判からぬから吾亦紅を励ましの唄と言えてしまう。そんなヤワな優しさを子供達に伝え残す親であってはならない。摂理を知るには「まず痛みを知る」事だ。まず親が痛みを知り、それを子に教えられる親であらねばならないのだ。


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