(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成20年6月号

大阪の老舗料理屋の使い回しが判明した。この店は以前に商品の偽装をやっていたが、あの時の反省から見ても不正に奥行きがあるのは見て取れた。
 我々の中には「やりたい事」と「やるべき事」の区別が出来ない人が多い。この二つは全く違うのだが、この違いが判らない大人も多く存在するのは憂慮すべきだ。
 大阪の老舗料理屋の事件でも、「べき」立場や理念とかが忘れられていた。だから「こう答えれば逃げ切れる」という自分本位の言い訳が多い。組織が起した事件の大半にはこの種の言い訳がまかり通っている。一応低姿勢で頭を下げてはいるが、会社の社会に対する役割とかその不履行とかへのお詫びはない。会社として都合だけを言い訳して終わる。それに対して不正だけしか追求出来ないマスコミがいる。弁明の記者会見でもマスコミの不勉強や突っ込み方向の間違いは悲しいほどだ。事件を起した会社とそれを非難するマスコミのどちらにも理念とか立場とかへの思いが薄いからそれも当然だ。・・・我々に「やりたい事」と「やるべき事」の区別がつかないのだから仕方ない。
 この大阪の老舗料理屋の初代が料理の天才であったとして、その天賦が社会から評価されて料理人として名を挙げたとしても、まだその生き方は我がままと言える。その天賦が社会に貢献するという正義を持って初めてやるべき仕事になり我がままでなくなる。社会貢献という正義を抜きにしても、天賦を磨く事は出来るし更に大きな評価を受けられるが、どんなに頑張っても「べき」という正義を持たなければ天賦は我がままのままなのである。それは社会評価が我がままとか社会正義とかには無関係にできているからだ。
 やるべき事があるから人減は理想に近づける。やりたい事だけを頑張っても我がままを押し通して生きた事にしかならない。どんなに成功しても常に心に不安を持つ人が多くいるのは、ここに原因がある。その意味ではどんな第一人者でも「たまたま自分がそこにいるだけ」なのであって、そのポジションは自分個人の物ではない。「オレの起した会社だから」とか「私の稼いだお金だから」と個人所有を基本におく人は多いが、思い上がりも甚だしいと言える。
 思い上がりは命の私有に最も現れる。命は自分が作るのではなく授けられる。だから否応無しに誕生させられ否応無しに生き否応無しに死ぬのだ。命が授かり物だから使い果たす義務をもっていると同じに、何事もいつでも返上出来ねばならない、たまたま物なのだ。
 社会評価を受ける事とは別次元であるに気づかねばならない。社会で成功しても自己満足にしかならない生き方も多くあるし、社会評価を受けなくても堂々とした自分を生きられる事もあるのだ。更に言うが、堂々とした自分を生きる時には本当に自分らしく生きていると言える。
 本当に自分らしくあるにはまず自分の本音を知らねばならない。その本音は慣れた事を幾ら行っても見えない。嫌な事にしか見えて来ない。しかも見えた本音は情けない事におぞましいものだ。だからおぞましさを捨て良くあろうとする人も多い。だがおぞましさこそが自分なのだ。おぞましさを認めないでは自分らしさがない。ただおぞましい自分を社会対応させる努力が必要なだけなのだ。
 そのおぞましさを社会対応させつつ磨いて行かねばならない。磨くとは疑う事でもある。疑い続けて磨かれ確信して行く。確信した時には社会性を失っていてもおぞましさは我がままでなくなっている。現代に忘れられた堂々たるとはそういう事なのだ。やるべき事をやりたい事に優先できない生き方は自分に対して恥ずかしく、人生に申し訳ないのだ。


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