(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成21年10月号
 一年くらい前から自称「研究生」というアイアンマンが滝打たれに来られている。このアイアンマンは才能豊かで、名の通りアイアンレースに出るかと思えばウクレレを弾き料理も達者で狩猟などもやられる。才能豊かとはまた、自我の量が多量にあるということでもある。
  筆者の才能は妄想する事の一つに尽きてしまうが、これとて活かし方によっては大したものになるのかもしれない。人はそれぞれに才能を持っている。アイアンマン氏のように多量を持つ人もいれば全く持っていないと思っている人もいる。
 だが才能を持たない人はいない。だれもが何かしらの能力を持っているが、それに気付かないだけである。あるいは気付こうとしないだけである。そして言える事は自分の才能に気付かないとすればそれは、自身への怠慢であるということだ。
 神は私達に命を授ける。そして親からは肉体の形をいただく。肉体ではなく肉体の形をいただくのだ。肉体の中身を埋めるのは個性である。
兄弟であっても同じ性格で同じ能力でない事を見れば、肉体の中身は親の知恵ではどうにもならないもの、つまり授かりものである事がわかる。肉体に命が加わって初めて人間いう種(しゅ)になれるのだ。
 神からいただいた命とは個性のことである。個性とはその人の生老病死であり感性である。感性とは美的芸術的なもので、形では無いもの、要するにセンスである。これらは全てが天性のものである。
 問題は、かのアイアンマン氏も私達も同じ人間という種であるということだ。人間は約二百三十の遺伝子から成り立っているという。二百三十の遺伝子から成り立っているのが人間という種なのだから、アイアンマンも私達も同じ人間と言う種なのだ。ただその遺伝子の組み合わせや数に違いがあるのだ。それが個性と言うものの正体である。私達がアイアンマンになっても意味がないし、アイアンマンが私たちになろうとしても意味がないのだ。
  人間という同じ種であるのに、授かってくる才能が大きく違うのが現実である。しかしどんなに才能を数多くもっているとしても、種と言う共通項に比べたら極めて少ない。これは遺伝子の組み合わせの問題で考えると良くわかる。つまり個性とはイビツをいうのである。イビツは難儀だが、しかし受け入れてしまえば快いものもでもある。
  こうしてみると、イビツを受け入るか否かこそが私達の快い生き方の分かれ道となる事に思いが至る
 だが私達は一般にイビツを悪いものに考え、そのイビツを直そうとする。『周りと違うことは悪』という考え方が社会には強くある。周りから飛びぬけた行動をすればそれは良くないとして叩かれあるいは無視される。学校でのイジメは大人社会の、周りと違う事を悪とする価値観を強くに反映している。大人が異物排除の価値観に気づいていない。だから学校のイジメは学校の問題とする。
 家庭にあっても周りから突出しないことが優しさと間違って考えられている。突出せぬことは世渡りの一方法でしかないのに、それを優しさと考える親は反省をすべきだ。突出させないことで子供の個性を奪い取っている事実に気づかねばならない。気づかないのは親自身がイビツを悪いものとして捨て去っているからだ。
  ではどうしたら自分の個性に気づくことが出来るのだろうか?。滝で『周りと比較せよ』と言ったら、『どこを比べるのですか』と言われた。そうなのだ、そういう人は比較する前に自分の常を知っていないのだ。自分を知るより周りと同化する事を思っているのだからそれも当然だ。だがそこからしか始まらないのだ。
 目先の解決・目先の満足を思っていれば、自分を知ることなどあり得ない。目先の解決・目先の満足などの思いを叶えることと人生とが別であると気づかねばならない。だが現代社会では自分を都合よいポジションに置いて幸せの実現と言う。その程度の人生で良いならそれで仕方ない。だがだから現代人は心身を病む。イビツを発見し磨こうとしていれば、快く安心していられるのに、だ

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