(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成21年2月号

 白玉の滝での真冬の滝打たれの公開というイベントが終わった。年々評価が増しているのか、今回は冬にもかかわらず見物客と言うかそういった人が百人近くになり、普段は狭く思わない白玉の滝のある谷が当日はごったがえして狭くなってしまった。
 大勢来ると言うことは多くの人格と出会うと言うことで、主催する側ではそういった人達との接し方に神経を使う。多くの人と出会うと正に人それぞれだと感じる。滝打たれを写真撮影する人、自ら志願して打たれて安堵を得ようとする人、更には打たれている我々に手を合わせて拝む人・・・。悩みのない人はいないのだが、その悩みを作るのもまた自分であることに多くの人は気づかないようだ。
 「娘がやくざと子連れ再婚し、その孫がヤクザの父親から虐待を受けていてそれを救いたいから今日滝に打たせてください。私は昨年七月の白玉の滝のテレビをみてから今日まで家で水行をしてきました」というお婆さんがいた。我々は確かに滝打たれの一般参加者を募集したが、そのポスターには連絡先が明記してあったはず。その連絡をしないでいて滝に打たれたいと言われても困る・・・最初は断ったのだが、結局打たれても良いことにした。
 だが、自宅で水行をして来たのならそれで良いではないか。何も白玉の滝に来て願かけをしなくても良い・・・普段から自宅の水行で願かけは出来るではないか・・・そういう事をあのごった返した滝場で言っても通じない。かといってそのお婆さんが願かけの指導を仰ぐわけでもない。次回は基準を設け、それをクリアできない人は滝打たれを許可しない事になるだろうが、あのお婆さんは何を悩んできたのだろう、と未だに疑問に思う。本当に子供が心配だったのだろうか、孫を救い出す為にどこまで現実の手段を講じてきたのだろうか・・・滝に打たれる前にやるべきことがいっぱいあったはずだ。
 露骨に言えば、子も孫も可愛くなんかないのだ。子や孫を思う自分の気持ちが可愛いだけなのだ。自分の努力が最小で済みつつ、廻りの事を心から考えていると思われたいだけなのだ。どんなに孫や娘が不幸でもお婆さんにとっては、自分以上に可愛い人も不幸な人もいないのだ。お婆さんの人生構図では、自分が一番不幸に設定されているのだ。でもその構図設定は人生が孤独なものだと知らないからでしかない。
 お婆さんは過去にそういった行動を何度も取ってきたのだろう、と思った。だから娘はヤクザであっても一時的母より優しく思えた男と再婚したのではないか・・・。母親は娘に思いの通りなりさえすれば優しさであり愛であり幸福であるという間違った事を自ら示し教えたのだ。が自分が変わってこそ本当の解決なのである。
 本当に自分が変わった時には、自分も回りも不幸であると認められるし、幸不幸とは別のところに人生があることを理解できるようになっている。人間は孤独だからこそ自分で物事を決めざるを得ないのだ。つまり人間は自主自立して生きざるを得ないのだ。そして自主を以って自決してこそ自立が成り立つ。
 が、決める時に自分らしさで決めず、都合とか楽とかで決める人が多い。
神が下している現実を自分の思いを以って、都合よく取捨選択している不遜・・・神より自分が偉いのだから幸福にはなれないし、自分磨きの為に下された現実に含まれている神の意思など端から信じないし認めないから自分が磨けない。がその現実にこそ自立人生の分かれ道があるのだ。


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