(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成21年9月号

夏登拝が終った。講としての御嶽入りはもうじき百回を数える。今年は松尾滝の増水工事も行われている。そんな中で今年は色々と人の移動があった。
  人生とは幸せの追求ではなく、自分らしさの追及と確信である。自分らしさの追及確信とは学ぶことの積み重ねでもある。この事が判らない人は多い。更に言えば幸せとは思いが満ちる事であると信じて疑わない人も多く、それが間違った考え方だと判らない人も多い。楽する事と生きる事の違いを知っている事は齢とか立場とか関係が無い。この事を目の当たりにするのは辛い。
 毎年の夏山で頭痛を起こしてブレーキになる人が、迷惑をかけるから行きませんと宣まった。全員が修行で行くのに彼女は一人だけ遊山の世界であった。自分の世界を持ち込んで毎年頭痛を起こしてしまう、だったら一人で行けばよいのに…とも。人と同じ事をしないで頭痛を起こされるのも大迷惑だが、それより反省しない事の方が不思議だった。解決は自分が変る事であって、周りを都合よく変える事ではない。なのに、彼女は自分でチョイスする事しかなかった。
自分の都合の良し悪しでチョイスしているからいつも不幸である。その不幸は傍から見れば些細な不都合で、その程度の人生でよしと人生すらチョイスしている。我々も厄介事がなくなって安堵できるが果たして彼女はそれで良いかと疑問に思う。
 夫に離婚通告をされて慌てて滝に来た女性がいた。離婚する・しないと自分を磨くこととは違うよ、と筆者。自分の経費くらい自分で働くべきだ、と筆者に言われたが、仕事を見つけたのはその半年後だった。それも何度も言われてハローワークに行ったのだった。その仕事先で離婚協議中の新しい彼氏と出会った。半ば同棲を始めた。こりゃマズイ、と筆者。夫に離婚の最後通告をされたが、今度は自分に彼氏がいるからと強気になって離婚を受け入れた。だが途端に彼氏が弱気になった。彼は自分の離婚協議を理由に逃げ出した。彼女は彼氏を惹きつけるために仕事も滝も辞める事にした。辞めたは良いが、結果は丸見えだ。そこまでして彼女がほしい幸せとは、周りが都合よく変わる事でしかなかった。
 人間の品格の問題だなあ、と二人の人を見てて思った。自分でチョイスする人は煩わしい事や難儀な事を受け入れない。チョイスしないでいれば、痛みを重ねて妥当な判断ができるようになるのに、だ。周りを自分の思い通りに動かして思いを実現する生き方に、痛みを避けるから倣慢は生まれても、品格は生まれてみようがない。
 離婚の彼女ではないが、品格の無い人は異性からでも同性からでも愛されない。そういえば彼女に友人はいなかった。彼女は「友人はいます」と言ったが、友人と言われた人が言うには「彼女は話し相手」で終わりだった。話し相手を友人と思っている心情を思うと辛い。同性の友人がいない人が異性にモテるわけが無い。敬愛とか尊敬とかがなくても男女の関係は成り立つ。がそれは肉欲だけで、それをしてモテるとか結婚生活とは言えない。だからこそ一時的な楽しさを欲しい人になるのだ。
 
苦労をしない人間はいない。だが苦労が身につく人とつかぬ人がいる。いえるのは苦労が身についた人にこそ品格が備わるということだ。神は原理原則を学ばせるために難儀さを授け続ける。だから学べて、学んだことが身につく。巡り来た痛みを積極的に受け続けること、それが品格を作るのである。痛みを受け続けるとしても自分でわざと作ったり選んだりする痛みは我侭であって、満足しか生まない。当然に学べはしない。
 
学ぶとは難儀で煩わしい。難儀で煩わしいから学べるのだ。痛みに消極的になったり投げやりになったりしては学べず、身につかない。修行をやっていれば全力で取り組む事の大切さと全力になるための勇気の出し方を教えられる、としてきた。だが悲しいかな、例外もあった。現実をチョイスするからそうなるのだ。


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