(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成22年12月号

どうでもよいような小さな事だが実は大きな意味を持っている事に私達は気づかなかったりしている…。
  阿賀野市で公共の建物の敷地内での禁煙が定められた。皆さん何の気なしに、そうか喫煙者は大変だな、と思ったようだ。或いは、そこで働く役所の人は敷地内に出て格好悪くタバコを吸うのだろうな、とか思っただろう。タバコによる受動喫煙の害を言われて久しい。
  タバコの害が自分だけでなく周りの人にも及ぶのだから、総論を見れば阿賀野市の判断は正しい。自分は喫煙が有害なことを知っていて、その上で毒をあおるのだからそれはそれで自己責任として仕方ない。というより、人生は全て自己責任なのだから廻りで言うべき事ではない。喫煙で廻りの人に害を及ぼすことは少なくとも良くないことだから、善悪を問えば悪に決まっている。
 
だが総論で正しいから、結論として正しいとは限らない。むしろ総論で正しい分、結論で間違いとなる場合が多いことを言いたいのだ。
  我が国はこの点が判らないお国柄のようだ。例えば運転する時にはシートベルトが義務付けられていて、これに違反すると罰則がある。おかしい事だ。例えば運転中のケータイ電話ならばそれによって周りを巻き込む事故になるのだから、それは処罰を求めるのもあり、だ。対してシートベルトは害が本人に帰するだけだ。周りに迷惑がかからないのに、それを良いことだからと強制し罰則すら定めてなんとも思わないのだ。何で反発しないのか…おかしい。簡単に言えば「国でも警察でも、オレの生き方を決める力はない。オレが決めることを国が決めるとはなに事であるか」と。
 ここに個人の尊厳がある。自己責任とはそういうことだ。周りに迷惑を掛けなければ、或いは周りに迷惑を掛けて処罰されてもオレの確信した生き方があらねばならないのが、生きる、という事だ。
  人間個人はおぞましさによって出来ている。おぞましいが、これを否定しても意味がない何しろおぞましさが人それぞれの核で、この核こそが自分の正体で、これがなくなったら自分でなくなるからだ。どんなにおぞましくて否定したくても、だからそれで自分なのだ。要はそんなおぞましい核を活かすしかないのだ。活かす…を換言すれば「磨く」という事だ。それが生きるという事であって、周りの人と同じに生きても無意味でしかないのだ。更に言うなら、自分のおぞましさを磨いて生きる事が快くて安心できる事なのだ
 そのように神は人間を作った。個性とはイビツで、イビツとはおぞましさなのだ。おぞましさのイビツを理性という皮で覆っているのが人間で、でもその皮は人間の社会性を保つためのものでしかない。人間個人は本来は反社会的なものなのだ。個人で生きられないから社会性が必要とされるだけで、だから個人は常に反社会的に出来ているのだ。
  阿賀野市は人間の持つイビツへの畏敬のない施策を行った。個人の尊厳とはおぞましさこそ個人だと認める事から始まる。それが理解できない為に良い事を強制して平気でいられる。だがそれは絶対に間違いである。そして多くの人はそれに疑問を持たなかった。それだけ、生きるとか人間とかはどうでもよい事としているのだ。確かに人間を考えなくても生きる事に悩まなくても、飯を食っていられたらヒトは生きていられるのだ。だが飯を食う事だけに悩んでいたって、それで安心できるのではない。自分に確信をした人は、らしく生きる事が最大課題で死ぬ事などは小さな問題なのだ。安心があれば死ぬ事は小さな問題に変わってしまうのだ。
  筆者はタバコを吸わないが、個人の中の不合理・イビツを否定してしまう良い事の強制には大いに腹を立てる。このどうでもよい事こそ個人として厳密に判断してゆくべき切実な課題である。そこには人間の尊厳があるからだ。どれほどイビツでおぞましくても、絶対に否定されてはならないものが人間皆にある。それに気づかないから安直に否定をされてしまうし否定されて怒りもしない。真摯に生きるとは自分個人の尊厳の否定に対して怒れることだ。


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