(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成22年3月号
  同じ事を繰り返すという事はどういうことなんのだろう…と思った。自分が一番大切なのに、自分のことを億劫がるってなぜなのだろう、とも思った。派遣村のことだ。
 住まいのない求職者に対して民間や行政が宿泊場所や食事を無料提供したのが『派遣村』であった。派遣村という生活再建施設を開設し、年末から一月四日まで生活総合相談を実施していた。だが利用者八百人の殆どに生活再建のめどが立たなかった。そこで東京都は施設提供期間の二週間延長を予定した。二週間とは就労や生活保護申請が決定できる時間という意味だった。東京都は仕事探しを希望した人に二週間分の費用として国からの金を二万円ずつ渡した。そうしたら、金を貰った五百六十人のうち二百人が禁じられている無断外泊をした。しかも「外泊します」という連絡は一部しかなかったという。派遣村の実行委員会では「現金を持ちなれてない人が多いだけに、一括で渡さない配慮が必要だった』と行政を非難していた。
 しかしこの非難は妥当ではない。金をまとめて渡したのは、当座の生活くらい自分で管理できるだろう、という行政からの期待である。その期待を利用者は見事に裏切ってしまった。というより裏切ったことすら判ってないのだ。社会生活の最低限のルールであるところの「外泊します」という連絡すらできてなかったのだ。そういう人を何で行政が面倒見なければならないのか不思議であるし、そういった不公平を指摘しないで人権を擁護できるマスコミの態度は犯罪とさえ言える。
  今回の事ばかりではないが、例えば生活保護を受けている人が懸命に働いている人より多額の扶助金を貰っていたりするように、現代はまともな人が一番にワリを食っている。人権を拡大解釈して宝物のように扱い、結果としてまともに生活している人が馬鹿を見る場合は結構と多い。派遣村の問題も、マスコミは大人としての社会的ルールを学ぶことが欠けていたことを非難しないで、単にかわいそうという態度でいたのは、いかがなものか。
  二十二年冬の白玉の滝打たれでは、『少子化社会に向けて大人こそが学び続けよう』というアピールを発信させてもらった。大人が立派な見識を持っていても少子化社会を支えられる逞しい子供が育つとは限らない。だから大人が社会生活をまともに出来ない社会状況で何で子供がまともに育とうか。子供の不出来を嘆く前に自分自身を振り返らねばならない
  派遣村の利用者だけが不出来な大人なのではない。私達は誰でも誕生以来不出来なのだ。個性とはそういうものなのだ。その不出来を受け入れているかどうかが問題で、不出来を受け入れて初めて自分らしさと出会う。それを磨いてゆけば良いのだ。
 しかし派遣村のような、考えない・動かないという生活態度では「らしさ」どころか、何事にも出会えようがない。知とは痛みである。つまり学ぶとは痛みである。そして生きるとは学び続ける事である。つまり生きるとは苦しみ続ける事である。らしさに出会うとは苦しみを受け入れることに慣れることであるのだ。だから社会的ルールを守れない人はらしさに出会えない。但しその分だけ楽なのだ。ルールを守らない事が恥ずかしいとか切ないとかでなく、守らない分を楽と感じるのだ。だが楽だからこそ疑問を感じる事がない。そして社会的ルールを守らないから世の中を自ら狭くする。世の中を自ら狭くするから、ますます楽を求めてルールを守らなくなる。それを不幸と思っても逃げとは思わない。
 二乗の法則という教えがある。一度逃げたら取り戻すに二倍の難儀を要する。二度逃げたら四倍の難儀だ。三回逃げたら九倍の難儀だが、九倍の難儀の克服は無理である。
  社会的ルールは訓練で守れるようになる。守る事が正しいとも限らない。破ってみてこそ守る意味がわかる。それが判ったら守る努力をすれば良いだけなのだ。ただ訓練でしかないのだ。但し、それは遅くとも青春期までに身に付けておかねばならない事だ。今を選ぶとそれが大幅に遅れて派遣村行きとなる

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