(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成22年6月号

 お笑いブームも翳りだしたというのに、三月に『Sー1グランプリ』というお笑いコンテストが行われた。優勝賞金は一億円だった。一億円がかかる決勝に出るには月間チャンピオンにならねばならない。その月間チャンピオンは一千万円が賞金である。どちらも三分間の映像を、携帯電話による投票で最多票を獲得したものが勝者となる方法だった。
 筆者にすれば、さぞレベルの高い笑いが放送されるのだろう、と期待していた。それまでは年一回の「Mー1」という漫才コンテストが最高で、賞金は一千万円だった。笑いは感性に訴えるからセンスによって合う笑いと合わない笑いとがあるが、Mー1の一千万円はかなり高い内容であった。あれだけの内容で一千万円なのだから一億円の笑いとはどんな内容なのだろうと期待していた。
 だが、はっきり言ってがっかりする内容だった。Mー1優勝の一千万円にすらほど遠かった。一億円を獲得したコンビが一昨年のMー1で優勝した漫才コンビだったから、その比較が簡単に出来たこともあった。

 でもさすが一流だと思ったのは、一億円を手にしたコンビがこの優勝に安心していない事だった。『自分達は莫大な賞金に相応しい人間だと思っていない。いつの日か自分がもっと成長して賞金にふさわしい様な男になれる様一日一日を大切に生きてゆこうと思う』とコメントしていた。
 優勝賞金を高く設定しすぎている、と初めから感じていた。筆者のように毎年の五七五カレンダーですら四苦八苦している者からすれば、お笑い文化はもっと高く評価されていい。筆者は自分のカレンダーを出すたびに『暇なんですねー』と言われたものだが、お笑いとかユーモアなんてものは文学より高度な文化だと思う。だがいくら高度だと言っても三分間で一億円というのは常識を逸している。主催のケータイ電話会社としてはお笑い文化に最大限の評価を表わしたつもりのだろうが、この会社の金銭感覚とか営業方針が垣間見えたようで、いやな思いもした。高額であれば価値があるのだという発想はやはり間違っている。

 お笑いは馬鹿では出来ない。あるタレントが言っていたが、人見知りする人でないとお笑いタレントは務まらないという。なぜなら、人見知りする人は場の雰囲気がわかるから、という。場の雰囲気を感じた上で、どう話をヒネって笑わせるかは笑いのセンスの問題…そういわれればそんな気もする。人見知りはその場の空気を読む力が強いと言われると、それも違うと思うが、確かに場の空気を読めねばヒネられない。
 全国からの投票で優勝者が選ばれるのはすごいと思った。我々の目も節穴ではなかったのだ。いつまでも高く目線を設定して進んでゆけることはすばらしい。私達の多くは一億円を手にすると生きる目線を忘れたり曖昧にしたりしてしまうだろう。優勝コンビは金よりも評価が欲しかったはずだし、評価をもらっても次元の違う評価ならどんなに高い評価でも意味のないことを知っていた。
 
自分のこだわりがどう評価されるかこそが大事なのだ。人間には本物と偽物しかいない。だから善人とか悪人とか言う評価など何も意味しない。なのに善人と評価されると安堵する人が多い。ピントのずれた評価でも評価される事に安心する人もいる。だが人に評価されたり、善人と言われて喜んでいるうちはまだまだ偽物なのだ。偽物として生きることは辛い。だが自分を偽物とすら知らないで生きることは尚辛いし悲しい。
 本物は疎まれる分、必要とされる。本物として生きるという事はそれだけ緊張と無理解が続くのだ。だが覚めてみれば、評価されない孤独は生きる当たり前の姿なのだ。家庭を大事にする男の多くはこの孤独を恐ろしがる。だが繰り返して言うが、孤独なこと・理解されないことが生きている自然の姿なのだ。なぜなら、それが個性に基づくからだ。個性はその人しか判らない・その人しか理解できないものだからだ。生きるとは孤独と同義で、つまり孤独を受け入れらねば安心にも至らないし、道を究めることも出来ないのだ。


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