(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成22年7月号

 小沢一郎という政治家の持論は『親を教育せよ』である。筆者も同様なことを主張するし、自分に対しても思う。近い将来の少子化社会に対して大人が今のままであっては立派な子が育たないのは明白だ
 カミナリ族という世代がいて、その世代から生まれた子が校内暴力を振るい、その子の子供達が家庭内暴力を振う…時代は変遷して行くがやっぱり子は親からしか学ばない。父親が子にしてやるのは月給鳥という幸せの提示ではなくて生きる姿勢の提示だし、母親が子にしてやるのは自活するためのノウハウを身につけさせる事である。なのにどの両親も優しさなどという事を大事に子育てする。しかもその優しさたるや全く得体を知らないで、だ。優しさを大事に子育てする親は、子をおもちゃにしている。おもちゃに育てられた子は社会性に適応するにすごく時間がかかる。時間がかかるとは問題児扱いにされるという事だ。
 自分の子が問題児になると親はそんな子を見放す、あるいはもっと自分の思う通りに行動させようとする。子は親の前では背いっぱい背伸びして良い子になろうとする。だが精いっぱい背伸びして良い子になってもそれはその家のルール内だけだ。その家のルールがどこでも通じる訳でないから背伸びの上手な子ほど結果としてルールの通じない量を大きくして、問題児となる。問題児になった時に親は自分の面子を汚させたくなくて、益々子を自分の思うようにさせようとする…『親の言うとおりにがんばって背伸びして親から好まれる子になってきたのに、なんでオレが問題児なの?何でオレが悪くてオレをしつけた親が悪くないの、何でオレの味方を親はしないの?』と子にすればここで親を信用しなくなる。それほど親は子への優しさなどを真剣に考えていないのだ。真剣に考えていればそれが学校でも警察でも厳然として抗議でき、釈明できるはずだ。
  この様に、自分に曖昧な親は多い。いや、自分の曖昧さに気づかない親が多いというべきだ。曖昧でありたくなくても曖昧なのが人間である。子が生まれて親になっても、だからといって一気に立派な親になれるのではない。立派でなくても子育てをしてしまう、いや子育てができてしまう、いや子育てが過ぎてしまうのだ。親は子に親の勝手な背伸びを求める…だから親がなくても子は育つのではなく、『親があっても子は育つ』が正しいのだ。かように子は親の我が侭な思いに振り回されて育つ。
  違いは親が普段どう行動しているのかにある。それは自分がどれだけ見えているか、でもある誰でもそうだがなかなか自分は見えない。周りで自分がどう見られているかを知ろうとしない。回りの見方が正しいとは限らないが、だからこそ普段の自分が見えてなければならない。自分を見ようとしても見えるものではないが、でも見ようと努力しなければ何事も始まらない。
 しかし多くの親は、いや多くの人は
自分のすべき事を見ないで、したい事を見ようとする。更にしたい事の達成をして幸せという悪い社会風潮がある。だが幸せにこだわる人は幸せの意味がわからないと共に自分を見ることができない
  自分のしたいことをいくらやっても自分の現状は見えて来ない。それは自分のしたい事からでは満足しか得られないからだ。満足はあらゆる物を停滞させる。満足を得られない時に、振り返り分析を繰り返して、ようやく理想とか到達すべき点とかが見えてくる。理想とか到達すべき点は初めにやりたいと思った事とは遠く離れているがそれを妥当として受け入れられる。妥当と理解できる自分に変わっているから受け入れられるのだ。ここ大事だ。やりたい事をやったからいつ死んでも良いという人は多いが、そんな人人達にはその程度の人生で終わらせている事が判らない。やりたい事をやって回りに迷惑をかけ、そんな迷惑をかけている自分が見えず停滞した人生である事を知らない。そんな親を小沢さんも危惧する。


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