(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成24年11月号

 おかしな事ってあるものだなあと思った。それはある小学校のことで、その学校では5年生だけの『立山登山』が恒例行事になっているらしい。そのためのトレーニングに親子して立山へ行ってきたという話である。
 来年の登山がぶっつけ本番でなくてどんな意味があるのだろう、と思った。今年トレーニングに行って来年落伍しないで済む方法を見つけたとして、子供にとって何の自信が生まれるのだろう?。頑張れば出来る、と言うことに自信を持ったと結論づけるのだろうか…それは違う。事前に登山して人のできない努力をした、と言うというか?、それもまた違う。
  学校ではこの恒例登山の為に五年生を対象に階段のぼりなどのトレーニングを行ってゆくという。立山は3010メートルの高山である。その山に登るのに、いまどき階段のぼりのトレーニングはないな、と同じく高山に登る筆者は思う。いくら恒例登山の恒例トレーニングでも、間違ったトレーニングを継続しているのは教師の不勉強だ。恐らくだが、転勤してきた教師は恒例である為に従前と同じことをして済まそうとし、不勉強を起していると思われる。その程度の熱意で運営される恒例登山だから、PTAも子を落伍させない努力という訳のわからぬ方向に目線が行ってしまうのだろう。
  共通していえる事は、教師も親も真実に子供のためを思って行動してはいないということだ。学びと関係しない事前調査の意味はどこにあるのだろう。落伍しない対策を見出せたとしても、要するに学ぶこととは全く関係しないのだ。しかしこの学校にはそういう落伍しないための事前調査をする親が結構な数いたらしく「今日の立山は〇〇小学校の親子登山みたいだね」という言葉が交わされたという。親が自分たちの考え違いに気づいていないのに驚いた。
 来年の本番で落伍することに何のマイナスがあるのだろう。人のやらない事前調査とやらをやって、秘訣を見つけそれによって落伍しなかったとして、そのことに何の意味があるのだろう。他の生徒を出し抜いて落伍しないだけではないか。秘訣を見つけるのは落伍しようがしまいが恒例登山が終わってから生徒自身が何かを感じてそこから努力してのことだ。
  前にも書いたが、ニン二クを食べ足の三里に灸をすえて御嶽登拝にきたお爺さんがおられた。楽に登ってどうするのだろう、と思った。人と同じ事をしないで修行と思えるこのお爺さんの目線がわからなかった。この学校の恒例登山は修行とは違うが、学んで自信を持つという点では修行と同じだ。ただ自分に安心するという事が学校に欠けているだけだ。
  なぜ人と同じ体験をして学ぼうとしないのか…この登山は父兄のボランティアと担任教師で賄われているというが教師も父兄も事前調査に疑問を持たない分、結果や成功というものと学びの関係が判っていないと言える。それだけ、社会は成功中心の価値観に汚染されているのだろうそこまでして回りに迷惑かける事を恥ずかしいことだと思っているのだろうか…だったら一切学べないと思うべきだ。学ぶのは失敗をするからで、失敗をすれば迷惑がかかる、これは仕方のない事だその事も生きてゆくのに学んでゆかねばならない事だし、迷惑をかけたと自覚すれば、頑張るエネルギーを生まねばならない。そのような大事な事を迷惑の一言で片付ける親の目線が解せない。子は落伍したことを恥ずかしさの何倍も悔しく思っているだろう。迷惑をかけて恥ずかしいと思うのは子供ではなく親なのだ。
  成功を至上の価値とすることが大人の間違いなのだ。成功にむけての努力が大切なのはそれが学ぶためだからで、学ばずに成功するのはもっとも卑しいことだと気づかねばならない。だが成功しなければ社会に置いてゆかれると多くの人は考える。成功すれば自分が認められ社会にいられる…それだけのために成功したいとすると目線が卑しすぎる。成功不成功と自分が認められる事とは違うことだと気づかねばならない。学ぶための正当な手続きである痛みを省略する自分に気づかねばならない。



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