(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成24年4月号

 この冬は猛烈だった。滝の小屋でも積雪は過去最高だったように思う。幸いと言うか長年やってきたからと言うか、ポンプを凍らせない方法に出会い、滝場の土間コンの排雪を効率よくやる方法にも出会った。筆者の間抜けさのまま今まで気づかなかった事を情けないと思いつつ、ポンプを凍らせない方法に気づいた事に少しは喜ばしい思いになった。土間コンの排雪についても落水できる滝があるのだから、打たれる滝を限定すればよかったのだ。滝場の一番奥の四メートルの滝を排雪場にすれば足りる問題だった。色々な事をひねったりもじったりして別の角度から見直す事をせざるを得なかったのだが、正にピンチこそチャンスだった。過去最大であったこの冬の積雪を案外と楽に乗り越えた事は将来への財産になったと思う。
  しかし、である。そういったピンチに対処するにマニュアルのままの人も多くいた。マニュアルは崩してこそ意味があると筆者は言うが、実際に昨年の東日本大震災でもそうだった。『想定外へのマニュアルがない』が対応できなかった理由だった。情けない、だらしない、ぶざまだ、と国や東京電力の対応に対して多くの人が思ったと思う。その通りで、ピンチには普段が出る。普段しか出しようがないのだ。
  滝打たれで『自分で考えて自分で動く』と口すっぱく言う事が、これが出来ない人も多くいるのだ。というか、どうすれば良いのかの手がかりすらわからないようだ。マニュアルだけ覚えて、マニュアルが必要とされる現実を見ようとしないのだからそれも当然だ。 だが、ニュアルが必要な現実を見ようとしないとは、要するに自分の現実を見ないことだ筆者は偉くもないのに、『自立』を説く。その多くは精神の自立を説いている。個人の生死はその人の価値観に集約される。だから精神の自立ができれば生きるという事と死ぬ事が一体となり、一体となれば経済的自立は生き方・死に方の結果でしかなくなる。だから死に対して精神の自立のみ優先され経済的自立などどうでも良い問題となる。精神の自立を説く理由はここにある。
  だが現実には、経済的に自立出来ていないのに精神的自立を求める人が多い。自分らしい生き方に出会うまでは、そしてその自分らしい生き方を完結するまでは、自分らしい経済の自立を維持せねばならないのだ。しかし、経済的自立の必要を言うと、蓄える・使わない事に結論が行ってしまう様だ。ここにもマニュアルの裏を見ようとしない普段、もっと言えば自分に無関心な普段という現実が見えてくる。
  自分に無関心な人は社会的に安定しているヒトに多い。国や東京電力という超エリートの震災対応にそれが表れた。我々の団体でもそうで、例えば車が滝の駐車場に到着して、ようやくカンジキを履く。最初は履き方が判らなくて時間がかかる。これは仕方がない。だがカンジキが必要とされる間じゅう、履くのに時間がかかっていた。筆者は無視してさっさと雪をこざいて行く。その後からカンジキが来る。しかも一歩一歩足元を固めて。しかも体重の軽い人がカンジキを履いて…カンジキの履き方は持ち帰りして復習出来ないのかなあ。カンジキの目的が何なのかと考えたのだろうか。  ストックの代わりにもなるからスコップも要るよと言うと、古くなったスコップを持ってくる…ストックの代わりにしかならないじゃないか。ポンプの水抜きをマニュアルで教えたら、正確に覚えられないで要らぬバルブを閉めて凍らせた。原理を考えようとしないのかなあ。マニュアルに疑問が生まれるまで考えないのかなあ…。
  他人任せで生きられる不思議がある。我々の団体だけでなく、国中が他人任せで生きている。リーダーシップを取る人がいなくなるわけだ。
 『大人の教育が滝打たれの目的です』と筆者は大真面目に訴えるが、バーチャルな自立ですら全うできないヒトが多い。安穏を捨てずに何が自立かと思う。滝は不動様で不動様とは現状打破の力を言う。現状の安穏を捨てねばならないのに、その安穏が何なのか知ろうとしない。具体的に自分を見られないのは辛い。具体的に原理原則を考えなくてどうして自分の曖昧さが見えるのだろうか、不思議だ。


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