(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成24年7月号

  ノロウイルスというものがある。感染性の胃腸炎と訳されている。吐き下りした吐しゃ物からこのウイルスは感染してゆく。そして感染力が強い。目に見えない点からすれば放射能汚染と同じで、誰が汚染されているのかは判らない。検査せねば判らない。判りにくいから患者と保菌者と無菌者との区別が容易でない。その区別がつかないから誰を使えばよいのかが見えてこない。
  そのノロが筆者の関係する施設で発生した。幸いこの施設は体力のある人が入っている施設だったから、吐くか下るかで済んだ。これがもっと高齢者で介護度の進んだ人たちの施設だったら死者が出る場合も想定できた。
  事前にマニュアルなどというものを定めてあるが、施設の実情に合うまでには定められてはいない。想定外ではなく、どう合致させるかという問題で、結局その場になってみないと何も見えないのだ。まさに経験の産物で、今回は多くの事を学ばせてもらった。
 色々な人がいて色々な考えをするものだ、と改めて思った。とは言え、考え方は全てが今まで生きてきた結果である。ヒトの心とか価値観とかは、ここ一番で過去とまったく別な行動をとれるようには作られてはいない。今までの行動を見ていると、やはりな、と思う行動をとる人が多かった。
 ノロと気づきながら黙っていたヒトがいた。施設内が変だということで噂話の収集に歩き回っていたヒトがいた。ノロ発生といわれただけで、ウイルスを保菌していないのに吐いて苦しんだヒトがいた。友達がいないから罹患者に挟まれた部屋にいながら感染しなかったヒトがいた。頼る友人がいないからと実家へ帰った人がいた。
  緊急時にどう行動するか…ヒトはなぜ生きるのか、なぜ生きねばならないのか…ノロに取った行動には今までの人生の全てが集約されていた。
  高齢者の施設を運営していて言うのだから変に思われるかも知れないが、ヒトは必ず死ぬのだ。ただ闇雲の長生きすればよい、と筆者は考えない。生物には全て死を避けるべき能力が本能として授けられている。だから今回のノロウイルス感染の様に色々な行動は、生きようとする本能の裏返しなのだ。生きる意欲に欠けていても自分という意識がある以上、それは生き続けるための戦いといえる。つまり死ぬとはどう生きたかと同じ意味になる。
  このどう生きるのか、を考えるとき、人それぞれの反応となる。この反応はまさに千差万別であって、どれが正しいというものはないのかも知れないが、少なくとも死に対して従容としていられるべきだ。生死裏あわせというが死は一瞬にして訪れる。だから例えば津波に呑み込まれたり、交通事故の巻き添えにあったり、通り魔に襲われたり、隣の火事で毒ガスを吸ったりというように、死ぬべき事件でないのに死なねばならないこともある。或いは死を意識しないうちに死んでしまうこともある。いつ訪れるか判らない不合理が死なのである。
  だからこそ、避けられない死ならば慌てないでどんなに不本意な形でも躊躇することなく、死を受け入れられるように生きねばならない。要するに生き方しか死に方を作れるものはないのだ。
  死に対して躊躇するかしないかは、命を私物化して生きてきたか、授かり物としてきたかの違いである。この内、命を私しているヒトは必ず躊躇する。もっとも躊躇するのは死ぬことばかりではなく、生きることの全てに対してである。そして躊躇は不満という形で表れる。思いを叶えることが幸せだと思い込んでいる。
  その程度の生き方でよいのだろうか? 「私の人生は思いのままでした」と言えることと死に対して躊躇することとは次元が違う。生きるだけ生きねばならないのだ。そして死は一瞬で訪れるから、常に緊張して生きていて、更にその緊張こそを楽しまねばならない。死ぬために今を生きているのではない、その逆で今を生きた果てが死なのだ。そして緊張があるから生命力が鍛えられ、緊張感を嫌な事としているから自分と言う個性に確信できる緊張こそ個性のモトで、少なくとも個性を十分に生きることであらねば生きたことにはならないのだ。


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