
| ●平成24年8月号 |
| 古い話になる。筆者は一昨年の夏に還暦祝いの学年会をやった。役員に引っ張られ裏方作業の連続で、終わって、やれやれという思いであった。 参加者の色々な顔があった。『みんな良い顔の齢のとり方をしたんだなあ』と筆者。『ここに出れた者はみんなそれだけで幸せなんだ』と、学生運動の闘士くずれの奴が言った。 それにしても、中学卒業から四十五年が経過しようとして、幸せの質とか濃さとか生き方とかを感じずにはいられなかった。皆努力をして生きてきたが、その努力が報われるとは限らないし、報われて幸せを得たから良いとばかり言えないとも思った。 「美人は自分の売り方が判っているのだなあ」と筆者は皮肉混じりに思った。美形で生まれてそれに釣り合うハイクラスな家庭に嫁ぎ、その生活レベルを維持できたのだろう。だが筆者から見たら彼女に年輪を感じられなかった。年輪を感じさせない生き方とは何なのだろうと思った。それをたぶん彼女は幸せというのだろう。 勉強ができたが貧しさの為か進学できなかった女性がいた。そんな彼女が欠席と言ってきた。その返事を何とかしようと筆者はその女性に連絡をとった。『私は今もずっとメリヤスのミシンを踏むしか能がないから』と欠席の返事を変えてもらえなかった。何のせいでもない。ただ昔は運がなかっただけだ。そして今も運に恵まれないだけなのだ。もし実家の親か旦那の一方が順調であったら、彼女は喜んで参加することができたのかもしれない。 神はそんなに楽ばかりを授けはしない。勝手に安逸な生活を作り出せる時代になってはいるしそれを幸せと呼ぶ時代だ。だが不参加の彼女はそんな幸せの意味を知らないだろうし、何よりそんな幸せを得る価値が判らないだろう。多少のことにビクともしないハートを持っているからだ。人間は受けたことのない痛みは耐えられない。三の刺激を受けていると四の痛みに耐えられない。だが七の痛みをいけていれば八の痛みには向かっては行ける。そして人間は受けた痛みしか理解できない。理解した事を言葉にする必要はないが、『ずっとメリヤスのミシンを踏むしか能がない』といった彼女の言葉は真実に思えた。
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