(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成24年9月号

御嶽登拝が終わった。毎年思うのだが『登れて良かった』『登れなくて悔しかった』という声が多い。或いは『登れないから不参加』という人もいる。現代はミニ修行とかプチ修行とかいうものがブームという。定められた期間を定められたままに完走することをしてそういうようだ。要するに達成感を得さえすれば良いのだ。そういうものを修行というのが間違いで、その達成感から始まるのが本来の修行なのに、それで終わってしまう…他人の定めた評価で自分の心を測ってもらって安心する事は修行では無い。大マケに言って、そこが修行の始まりのきっかけである。もっとはっきり言えば、ミニとかプチとかの修行で生まれる達成感に疑問を持つ人でないと修行に臨めないということだ。
  筆者は一年を通して足の鍛錬をやっているが、それは登る為ではない。何人分も歩けねばならない必要のためだ。落伍者や事故に備えてのものだ。個人が単に登るだけなら、あれほどの鍛錬はしない。
  一緒に鍛錬をする人もいるにはいるが、目線がどこにあるのか不明に思う人もいる。というより単に登るだけなら、あれほどの鍛錬はしなくてよいし、その前に登る・登れないの価値を考えてみなければならない。人に負けないための鍛錬ならば不要だ。人に迷惑をかけないための努力は必要には相違ないが、一人で下山できるような想定が優先される場合もある。
  御嶽登拝が一年間の発表会という意味はそういう事だ。どれだけ自分の目標が妥当であって、その境地を作る為にどれだけ緊張をしつづけて来たか、という事が問われているのだ。
  筆者は毎年四月に入ると肉断ちという食事制限を行い、身体を清めると共に精神の純化を目指す。更には体重を減らして身軽に動けるように食量制限をしてゆく。毎年六月後半から七月いっぱいは空腹とも戦うはめになる。その結果、何が来ても負けないという気概が生まれてくる。意図したことではなかったが、食事と食量という二つの制限の為に筆者の精神は純化しつつも戦闘的になるようだ。
  自分勝手に目標を設定する事はそれがどんなに苦しい事であってもたやすいが、妥当な目標という事は難しいものとなる。そのせいか、私達の多くは難しくない目標、つまり妥当でない目標を設定してしまう傾向が強い。滝場で良く言う「勝手に苦行をするのは修行ではなくて、わがままでしかない」事がなかなか通用しない。 「修行は没我である」とも言う。我欲を持ち続けては修行にならないからだ。だが没我とは我があってこそ成り立つ。無我と同じで、無我も持っている我を無にすることをいうのであって、我がない場合には無我にはなれない。だから一旦自分の思いを置きなさいという。だが自分の思いが何なのか判らない。自分の思いを知らないでいては、それを置くことはできないのも当然の理屈だ。
  没我、つまり何を命じられても唯唯諾諾で行うのが修行の基本的なのだ。「自分の思いを一旦置きなさい」と滝場では言う。逆に言えば、我がなくては没我にも唯唯諾諾にもならず修行にならない。昔冬の滝に来て「寒くない怖くない」と言った社長がいた。それを良しと思うから言えたのだが、その程度の自己認識でも社長は務まった。なぜ「寒い怖い」と言えないのか、その思いがあればこそ、一旦置いて滝にぶつかって行って自己認識を強く深くできただろうに、と今も思う。だがこの社長の様に自己認識が曖昧でも達成感という満足を求めていれば生きて行けるし、そう錯覚できるのだ。
  自己認識は一朝一夕ではできない。一生かかっても出来ないかもしれない。だからこそ人生の核なのだ。それなのに私達の多くは自己認識を曖昧にして済ます。滝場で「はい」と言っていれば修行と思う人も多い。「はい」と言って済ませるのは楽だが、そんな安直さだから返事は良いが何も理解できない。「はい」という以上「いいえ」の自分を意識できていねばならないのだ。
  結果ではなく深く強い自己認識が求められる。何のために?。結果の為に生きているのではないからだ。神から授かった命を使い果たすために生きているのだから、自分を知らないでは生きたことにならないのだ。



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