(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成25年10月号

滝打たれの会がスタートした時は大変だった。宗教界ではオウムと言う教団が批判にさらされていた。一方では自己啓発として戸塚ヨットスクールの虐待が批判にさらされていた。以来滝打たれ健魂はオウムになるまいとし戸塚ヨットスクールになるまいとして歩いてきて26年目を迎えた。
  でもこの両者と近いところにポジションを置きながら、あるいは見ている方向が殆ど同じでいながら健魂は結果を残せないで来た。戸塚スクールのような「やわな人間性を叩き直す」と言う独善を進めなかったしオウムのように修行と言う物が社会から理解されず、そのために社会に仕返しをしたわけでもなかった。
  社会はいつだって理解できないことを悪と看做す法則を持っていて、理解されない者は悪者にされて来た。理解できないけど社会の役に立つものがあるのだろうとは考えない。それほどにヒトは保守的で、楽や慣れた事から離れようとしない。だからオウムの麻原氏が黙って死んでいったことに多くのヒトは疑問を持てなくて終わった。麻原氏がどこまで善意でどこまで故意でどこから悪意を持ったのか、本人も不明であっただろうが、やはりしっかり聞いて後世の真実のあり方への羅針盤にせねばならなかったのに、だ。
  話を戻すが、両者の目線が全て間違いだったのではない。健魂では「知は痛み」としてその痛みや不快感を蓄えて人格に昇華すべしと訴えてきたし、それが間違いでない事も脳医学では判ってきている。だから日課を全力で行わせ暴力で強制してきた戸塚スクールの怖さというものが、自己変革の基本エネルギーであるとしたことの全てが間違いとは言えないのだ。
 それでも戸塚スクールは間違っている。実際にスクール卒業生で社会復帰を果たした人が何人いるのだろうか?。痛みを自己変革の基本に据えている点では同じなのだが、スクールの場合は条件反射の形成のタネにしたに過ぎないからだ。条件反射では自己変革には至らない。条件反射はある一定方向にだけ処理が出来るというだけで、生きてゆく為の基本的な力にならない。痛みによって自ら心を養い、自ら価値観を作り出すに至ってないのはスクールの大きな失策である。そういう失策を抱えているスクールなのに、それが支持されてきた、この事に不思議を思えねばならない。
  独りよがりの理屈でいるからスクールの実績は上がりようもない。それなのに、スクールに期待している人が多い…それは何を意味するのだろう。スクールが条件反射を植え付けているに過ぎない事を見抜けない人が多いと言うことだ。条件反射するようになることとあるべき価値観を涵養することとはまったく違うのだ。
 
要するに求められる結果の想定をできない人がスクールに期待していると言える。もっと言えば、経過が持つ大切さを知らない親は我が子を躾けられず躾けられないから社会生活ができない。社会生活ができない弊害の挙句、緊急非難の場所を求めたのだ。躾不足の我が子を受け取ってもらえればどこでも良かった。緊急避難だから事故があると戸塚氏が訴えられる。親が手を引いたのだから、預かった生徒は煮るなり焼くなり戸塚氏の勝手なはずなのにそれを訴える。
  経過をしっかりと踏んで来ないからそうなる。経過からしか価値観は生まれないものなのだ。そういいながら社会を見渡せば経過を省略していち早く結果を得ようとする人も多い。色々なセミナーやヒーリングなどというものが闊歩しているのはそのせいだ。経過を省略して結果を得られたとしてそれを幸せと称してもよかろうが、生きたことにならない。生きる中には不幸と言う風景もいっぱいあるのだ。一方の幸せだけを味わって死に臨んだとき生きたと言えるのだろうか。その人生で学べたものがあると言えるのだろうか。学びの不足は経過の積み重ねの不足だ。



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