(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成25年3月号

 体罰事件が続いた。暴力と体罰を区別できない事が不思議だった。何故暴力を体罰と言ってしまえるのか、その間違いに多くの人が気づかなかった。それが非常に悲しかった。 ヒトが熱血のあまり暴力を振るうことは考えられる。だが、それは一回限りだ。衝動的に人を殺すことはあるが、二度も三度も殺すことはできない、とは筆者のよくいうことだ。衝動とはそう言うもので、限度を超える事はあっても再発はできない。衝動的行動には必ず後味の悪さが残る。それはヒトには他人をむやみに傷つけないと言う本能的な愛を持っているからだろう。殺人を再発できるとすれば、それは殺人を正義と思っているか、惰性となっているかのどちらかだと思う。
  今回のバスケット部の事件も柔道の事件も暴力行為は再発というより常習化していた。それだけ暴力を振るう側に惰性があったか、考え違いの正義があったか、と言える。とともに、暴行を受けて反抗できない選手の側にも考え違いがあったのではないかと思ったりしている。
  その考え違いとは『条件反射を進歩とみなす』ことである。考えてみれば容易に判ることだが、暴力によって選手が力を発揮できるとしたら、それは普段から全力を出せない選手が悪いと言える。暴力を振るわれるのがいやだからグレードアップした力を出せるとするならば、それは選手個人の怠慢と言える。暴力が待っていようがいまいが、出せる全力というものは決まっている。新しい技術を習得させる為の暴力などというものはありえない。暴力で習得できる程度のことを新しい技術とは言わない。新しい技術には暴力を振るう時間も惜しいほど修練が必要だからだ。
  脳医学で判ったことの一つに、同じ刺激を受け続けることで新しい感性が生まれる、というものがある。確かに同じ刺激を受けていればその刺激はクリアーできる。刺激のクリアーが大切なのではなく、そこから生まれる情感が大事なのだ。その情感によって不自由も緊張もクリアーできる。その新しい情感が新しい技術を受け入れだしてゆく、あるいは新しい技術を自ら生み出して行く。だがそれは自ら見出し考えることだ。そしてそれには長い時間を要するということを脳医学では言っているのだ。ならば暴力を振るわれ続けることによって生まれる新しい情感は何を意味すると言うのだろう。要するに痛みを避ける為の条件反射の情感だけで何も生みはしない。
  今回の一連の暴力指導事件でさすがと思ったのは、女子柔道選手が告発をした事だ。「暴力は指導ではない」と言明したのは、彼女たちが指導とはなんぞ、と知っていたからだ。ところが桜ノ宮の高校生はそれを知ることができなくて自殺に追いやられた。死んだ高校生を非難するのではない。社会がそうなっていて、暴力指導を教育と受け取る結果至上の価値観に汚染されていると言いたいのだ。短時間でモノにできるものなど何もなく当然に秘訣などないのに、指導者と教え子、何よりもその父兄はあると錯覚している。言うならば死んだ高校生はそう言った結果至上価値観に汚染されている大人に殺されたようなものだ。
  結果のためにはなんでもオーケーと言う生き方を大人自体がやっていてそれに疑問を思わない。しかもその結果が容易に手に入ると錯覚している。この結果至上主義は会社だけでなく家庭にもあって、夫婦間のDVなどもその例である。「夫に暴力を振るわれるのは夫を怒らせた私が悪いから」という理屈が疑問なく通用している。家庭は一方が怒らなければ良いというものではない。怒った先にある理想こそ問われねばならないもののはずだ。それを怒られねば良いと言う刹那の処理をして解決としてしまう。現代の結果至上主義とはその程度が多い。結果を出すためにはなんでもするということが刹那的に行われていて疑問に思わない。刹那の処理を解決と錯覚して気づかない。滝だって一回で目覚められると錯覚して打たれに来る人がいる。一回で覚れるのは、全て翌日には迷いに変わるものなのに、だ。



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