(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成25年5月号

自分を変えたくて、と多くの人は言う。滝打たれに来る人も同じように言う。変わらねばならない事情を実際に持っている。と言うより、ヒトは一箇所にじっとして生きていられるようには出来ていない。どんなに満たされていてもこれで良いというものではないらしい。生きるエネルギーは現状を容認しない事からしか生まれないからだ。
  このように人は自分に気づくと、変わりたい・変わろうと思うように出来ている。また変わらなくては生きるエネルギーを生まない。だから、人は変わってゆく宿命を持っている。
  教会や滝場や関わっている施設を通して「変わりたい」と言う言葉ほど、数多く聞くものはない。だが変わろう、という覚悟の度合いは千差万別で、戸惑ってしまう。
  簡単に言えば、どうあれ無理やりでも変わってしまえばすむのだ。だが現実は「どうしても」ではなく「出来たら」変わりたい人が多い。そしてその事に気づいていない人が多いのだ。どうしても・出来たら…の人は逆に言えば「無理して変わりたくない」と思っているということだ。
  出来たらとか自分なりにという思いでは変われない。どうしても変わろう・精一杯変わろうと努力してもなかなか変われないものなのに、恥をかかず・時間をかけず・たいした苦痛も無く…変わろうとする。あるいはその程度の努力しかしていない事に気づかない場合もある。「出来たら自分なり」の言葉は精一杯やらないための言い訳だと気づこう。精一杯やらないけど変わりたい、で変われるとしたらそれはラッキーをしか意味しない。 
  変わろうとするなら、どうしても変わる覚悟せねばならない。それには全否定をすることだ。全否定しなければ変われない。変わらねばならない原因は今まで生きてきた全ての行動にあるからだ。今までの生活を思いつく限り否定してもまだ気付かないことがあるかもしれぬのだ。
  今までと同じ事をして変わろうたってそれは絶対に無理だ。それなのに楽して変わろうとする。そんな甘い覚悟で運よく克服できたとしても、ラッキーな事など存在意味がないのに、それを大事なものとして手放さずに更に変わろうとしてしまう。
 その大事なものとは家庭であり、家族であり、仕事であったりする。さらには自分の行動基準であったりする。…でもだから変わらねばならない窮状に陥ったのだ。初めから逃げ場を作っておいて変わるって事はありえない。全否定をせねば変われない、とはこのような行動の基本部分を否定するということを意味する。
  あそこまで落ちたのだから後は浮かび上がるだけ…が通用しないのがヒトだ。ヒトは「ピンチになったから変わる」のではない。自分の身勝手な行動原理を身につけてしまっていて、気づかない…。行動原理が身勝手であるのにそれを捨てられないからピンチすら訪れない…。ピンチになっても変われないのに、だ。自分に合わない行動原理で心身を病んでいるのに、でも慣れた行動原理は楽で、慣れた五感が楽な分、違和感を持たせないから捨てる事を思わせない 。 
  自分で気づかねば変われないのに自分に気づかないようにしているのがヒトなのだ。だから大勢でなければ人と自分の差に気づかず、気づかずしては自分の錯覚に気づけない、と滝場で言う。そしてその錯覚を直すのは自分一人でしかできないことだ。だが「出来たら変わりたい」人は、独力では立ち向かわない。
  言われた事をやっていれば変われると思っている人も多い。それも錯覚と気づくべきだ…それがどんなに苦しい事でも言われた事をやるのでは、自分に気づくという違和感が生まれないからだ。自分に気づくという事は周りを見て自分に違和感を覚えるということだ。違和感を覚えることなく比較しようとしても、違いに気づける訳がない。
  自分に違和感を覚えて、その違和感を一旦おいて、人に言われた事をやって初めて間違いに気づける。周りに関心を持って違和感を覚え、その上で何があっても精いっぱい向かって行く癖をつける…だから苦しい。変わる事は楽しては出来ないのだ。



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