(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成25年6月号

 幼児虐待事件が続く。事件が起きると虐待をした親を悪魔のように報道するし、私達もそのままに受け取って鬼のように思ってしまう。だがそうだろうか。虐待は私達も親からされて育ってきた。ただそれを暴力と思わず、だから事件にならなかった私達は親からは幸いな事に、力ではなく言葉の暴力の中で育ってきた。言葉の暴力だから虐待に至らなかっただけだ(近年は言葉による自殺も見受けられる様だが)
 どんなに暴力を振るう親でも子がかわいくない親はいない。親とはそういうものだ。虐待の中には血のつながらない親の場合が多く見られるが、血がつながってないから虐待した、と考えるのは間違いなのだ。血のつながらない親は血のつながらないことを自覚する分だけ良い親でありたくて余計に努力している。その努力が通じない為に、躾を無理強いしてその結果が暴力になって行くのだ。子に限らずだが、他人を力づくで動かすことは一番たやすい。だがそれは動くだけでしかない。
  意味を判らせて動かす事が大事で、その努力が容易でないのだ。
滝打たれの会でも出くわすのだが、意味を判らせる・判ろうとする努力が不足だと強制ルールに化けてしまう。ルールとなっては何事も学べないから困るのだ。意味を知ろうとする姿勢がないと何事もルールに成り下がる。いや意味を判かろうとしない自分の生きる姿勢が人の下した判断をルールにさせてしまうのだ。
  常に意味を判ろうとする姿勢でないと、どんな良い事でもルールに変え、学ばないでしまう。ルールに変わる分だけ、実は楽なのだ。どんなに難儀な事をやったとしても、自分で考えていないなら、それは楽な事だと気づかねばならない。修行を『それはそれ、今は今』と一言で言う。だが、それはそれ今は今というのは没我を指すのであって、我を持たぬ事を意味しない。普段から自分の拘り・考え・原則がなければ、今は今とはならない。普段からの拘り・考え・原則を一旦置いて今の事に全力無心に当たるから今は今で、だからルールや物事の奥行きの意味を知る事が出来るのだ。それは何の事はない、学ぶ事でしかなく、それはまた修行と呼ばれるだけなのだ。
  そういう普段が出来てないから、子に対して距離をあけられない。距離をあけられないから力で言う事をきかせようとする。それが子への虐待となるのだ。世の中が思いとおりにならない事を充分に味わって生きて来ていれば、力づくで自分の言うことをきかせることに意味がないとわかっていられるのに、だ。
  親が力で言うことをきかせるのは暴力だけではない。私達に限らないが、子供の時に親から言葉の暴力をいっぱい受けて育ってきている。力による暴力ではないから虐待とは言わないが、言葉ではあっても暴力は暴力だ。その暴力の言葉を受けて親になって、自分の子供時代の出来事から何を学んだというのか?。学んだ事が明確に言える訳ではないが、少なくとも心の傷は親からもいっぱいつけられている。それを自分が親になった途端に忘れてしまったというのだろうか。厳しく言えば、その程度の拘りだから学ばないのだ。深く考える事の大切さは言うまでもない。人に判断を任せて生きる安直さに気づかねばならないのだ。
  幼児虐待に見えるのは親の愛情の空回りである。子の思いよりも親の思いを実現してやることが親の愛情であると信じて止まない人は、力と言葉の違いはあっても暴力で子に対処する。子をいつまでも自分の分身だと思っている。暴力で虐待される子はまだとして、言葉の虐待を受けて育った子は同じように自分の子に言葉の虐待をしている。自分がされたと同じ事をやってしまう。それは子が別人格である事を判ろうとしないからだ。別人格だから思うようにならない。思うようにならないから子育てなのだ。だがだから多くを学べる、いや、辛い事から多くを学ばせられる。学ばない事は楽な事だ。痛みから学ぼうとしない人はたとえ無言であっても、周りに暴力をふるっている。学ばない人こそ周りに最大の虐待を行っているのだ。



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