(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成26年10月号

社会が悪くなってゆくのは、主観で動くようになったからだ。自分の感覚が正しいのか・妥当であるのかの吟味をしないのに自分を主張するようになっている。自分の主張が通らない事が不幸とされるが、肝心な事は主張の吟味である。なのに吟味しない事を主張してしかも不幸と主張して、それが恥を晒していることだろ気づかなくなっている。

大変だ、という。一大事だ、という。だがそのほとんどがそれで死ぬ訳ではない。その程度のことを大変といっているのだ。

「仕事が大変でパートさんを雇いました」と言う。「今までと同じに休みたいから」とも言った。要するに大変なのは自分の今までの生活が壊されることで、仕事のことではないのだ。その程度の理由でパートさんを頼んだのだ。その程度のことをこの人は大変と言う…。死ぬわけじゃあるまいに、と思う。それでもこの人はこの人なりに、大変なのだ、主観として。

今までの生活は出来なくなるだけじゃないか。その今までにどんな意味があるかはほとんど考えなくて、ただ慣れない生活・厳しい生活になってゆくだろうことが大変なのだ。

だが、その慣れない生活・厳しい生活にならねば大切なものが見えてこない。なのに今までの慣れた生活で生きて行こうとする…ただ楽なだけだ。楽を守ったって何も学べない

その楽が正しいのか妥当なのか吟味しなければ学べないからだ。繰り返すが、そんなものを大変という。

学ぶには覚悟の強さが問われる。…自分の都合の良い状況にならねば学べないのではない、ヒトは何があっても学ばねばならないようにできているのだ。覚悟が強くあって現実を受け入れ、真正面からそして学んで行こうとし、厳しい現実の中にい続けて学ぶための知恵を湧かす。それが工夫ということだ。

対して、現実を都合よく処理しよう…楽な状況を確保して学んで行こうでは学べない。覚悟がないということは当然に工夫も生まれないということだ。その工夫の中で色々な奥行を知って行く…それが知るということで、だから人を色々な角度で考えられるようになる。結果として人への気遣いとか勘が働くようになる。現実が都合よいまま処理しよう…は保身そのもので、だから人と関係する仕事には向かない。

思えば社会の中枢では保身に躍起になっている人が多い。学びを忘れた人達が仕切っているのだから社会が良くなるわけがない。

大変だからパートさんを雇うというが、自分が今まで通りの生活ができなくなるという意味でしかない。

だから、パートさんを雇うのではなく、自分を厳しく働かせることが正しい。非日常に思い込んでいる厳しく働くということを日常として受け入れるという事だ。保身を壊す、それは意図的に自己破壊を成さねばならないということだ。
  自分を厳しく…とは自己破壊を意味する。非日常を日常とするとは、非日常という思い込みを当たり前・妥当であると受け入れることだ。
  どんなに才能がある人でも、この自己破壊ができないと必ず行き詰まる。大変という事はギリギリに削ぎ落とされた自分になって初めて使える言葉だと気づかねばならない。
  …大変とは言うが、自分の主観でしかない。今までの安穏とした生活ができなくなるということでしかない。ましてや、そんな大変では死に及ぶことなど絶対というほど有り得ない。大変、と言って避けてしまって、挙句に幸せという。ただ都合が良くなっただけだ。その程度の「楽」を幸せと思える人ほど「大変」という。そして死ぬ事はない代わり社会的に「死ぬ」なのに社会的に死ぬ事を大変と思っていない。主観で生きていれば社会的な死が見えない



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