(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成26年11月号

御嶽が噴火した。神の山が噴火して罪もない人々を殺した…と理解している人も結構おられて、さすが無信仰の国の方々だと皮肉的に思った。
  ヒトの味方をする神が存在すると考えるのは笑止千万。神は人など屁とも思ってなどいない。絶対的な神は「存続してゆくこと」のみを守るし宇宙を形作るあらゆる物に存続のみを真実として求めておられる。だから筆者は神事はけじめをつけるために儀式だと主張する。そして祈祷は念ずる力があっても(実際にないわけではないが)一回のみ頼るべき代物で、二回目からは存在する意味がないとも説く。
  要するに宇宙を統べて「存続」のみを守る神以外は存在しても意味がないのだ。宇宙を統べる神は自分以下の神の持つあやふやさを適当に認めておられる。あやふやさをその程度の都合の良さと考えておられるからだ。宇宙を統べる神は下等の神々のあやふやさと幸せとは別物と考えておられるからだ。
  宇宙を統べる神の幸せとは「存続してゆくこと」であって、だから今回の噴火のように恐ろしいものであるのだ。宇宙を統べる神とは言葉を変えれば、大自然・摂理である。大自然は恐怖の対象であり、優しくある時にのみ畏怖する存在であって、決して優しくなどないのである。ヒトがひれ伏すしかない遥か遠く大きな存在なのだ。人智が及ばぬと言う事は恐ろしいという意味で解釈して初めてなりたつものなのだ。
  それなのに神はヒトの味方をするものと多くの人に考えられている。それは儒教のまんまで人の精神の進化が止まってしまったからだ。太古、殊に儒教国家となった地では神とは祖先を意味した。人を助ける存在を祖先に求めたからだ。だから釈迦もキリストもその哲学を理解する事より現実の救いのみを求めた。祖先が神なのだから子孫をいじめる神は存在しないという論理だった。現在も多くの人は儒教の神の論理で精神を停滞させている。都合よく神を持ち出し、自分の言う事を聞かない神は無能だと考える。人が神を使って当然と考えるのはそれだけで無理があるのに、それが判らない。
  絶対的な存在は、神は優しいもの、人も優しいものと説く人は多い。ヒーラーなどと言われる人はそこを衝く。神は優しいし心は優しい人も優しい…だったら今回御嶽の噴火で死んだ人は優しくなかったからという事になりはしないか。そんなことはあるまい。そう言えるヒーラー達は何を見ておられるのか。死なれた方にはなんの理由もない。生き残った人にも理由はない。ただ相手が大自然だったからで、自然の一部のヒトという存在がハズミでいじられたという事でしかないのだ。大自然が「存続してゆくこと」のために怖さという本性をあらわしただけなのだ。
  人が神を使って当然と考えるのはそれだけで無理があるのに、それが判らない。儒教的精神は「万物の霊長」と言う言葉に象徴されるように人間万能主義へと陥ってしまった。人間万能主義は我が国古来の大自然を畏怖してきた真実と大きく異なるし、ヨーロッパの個人主義や人間讃歌とも大きく異なる。
  宇宙を統べる神は存続のみを守る。そこにはヒトから見れば恐怖しかなく、事実ヒトは大自然の力に恐怖しながら故もなく死んできた。そしてその恐怖に対して工夫を考えついて生き続けて来た。ヒトの考えついた工夫とは絶対神が守る「宇宙の存続」の範囲内で許されることだ。だから大自然は故もなくヒトから見れば理不尽な格好で死ぬ場合も多くあるのだ。そして儒教精神はヒトの工夫を便利に置き換えるようになった。工夫を便利の目線で使うようになってヒトには痛みが減り大自然の恐怖も忘れて行った。知は痛み…現代人の不勉強は工夫を便利に置き換えた時から始まったのだった。



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