(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成26年12月号

御嶽の噴火では多くの方が亡くなった。亡くなられた方はたまたま居られた場所が悪く、噴石に当たって一瞬で死んだようだった。
  神の山なのに、と思う人が多いようだが、絶対なる神は人を屁とも思っていない。人を相手にする神は神とも言えない曖昧な存在なのだ。亡くなられた方々には悪いが、ただ運が悪いだけなのだ。絶対神は人を屁とも思っていないから気まぐれに思える程不合理を平気で引き起こすのだ。
  人の目で見て不合理としか見えない死に対して私達は何を考えるのだろう。かわいそう、と当然に思うだろう。だが、かわいそう、ということで終わってはならないのだ。かわいそう、と思うことは始まりなのだ。
  何でか判らないが心動いた…それが全ての物事の始まりだ。だからそれを通り過ごさせてはならない。何でそう思ったのか、心の動きは自分でしっかりと処理をしておかないと…惰性で生きることになる。惰性とは自分の心の動きに鈍感になることから始まる。何でか判らない心の動き…何事もそこから学びが始まるのだ。
  御嶽の噴火にしてもそうで、人間関係からいえばほとんどの人が関係しない事だ。しかも数万年単位の火山噴火だ。その時代のその瞬間に居合わせた事自体がある意味奇跡である。その奇跡の出来事に立ち会わされた事を惰性で処理してはならない。
  その場に居合わせたら半分以上責任があると筆者は思う。傍観であっても良いがその半分以上の責任は果たさねばならない。
  すべての真実は宇宙が継続されることにある。だから宇宙が続くために知恵を出す…それが、半分以上の責任を果たす、ということだ。それが屁とも思われていないヒトという存在の為すことだ。それはまた、学ぶということでもあるのだ。繰り返すが、何を学ぶのか…死亡事故に出くわした場合、命の儚さを嘆くがそれで終わったって意味がない。儚いからこそどう生きるのかが大事なのだ。
  二十六年間滝に打たれ続けて思ってきたのは「生き方」だけだ。いや思ってきたのではなく思わされ続けてきたのだと思う。滝に打たれ続けて皮膚感覚で判った事は、死は常について回っているということだ。滝と対峙し続けて常に感じてきた事は「死ぬかも」という切羽つまった思いだった。自分の場合は死ななかったが、今回のように運悪く死ぬ人も居られる。噴火や交通事故だけが死因ではない。治療を通して感じるのは、治るも治らないも根本は神の気まぐれでしかない。
  ヒトは神の気まぐれに付き合いをするものではなく、それを無視して生きるのが正しい。神の気まぐれを無視して生きるとは、いつ死んでも良い生き方をすることだ。その際に言える事はいつ死んでも良い生き方とは良い人になって生きる事だと考える人は命の使い方が曖昧で偽物の生き方だということだ。死に耐えうるものは「どう生きたか」でしかなく、本物として生きたと言うことでしかない。
  ヒトはどうでも生きられるのだ。自分を曖昧にしても生きられる。だが命の儚さを意識できたなら、その「どうでも」に命懸けで正直であらねばならない。ヒトという種を絶やさないために授けられている個性を曖昧にしてはならないのだ。個性を生きるとは本物で生きるということで、本物とは善人だけでは生き切れないという意味だからだ。
  死を意識しない生き方こそ自分の個性を無視して生きることで、だから逆に強い意思があらねば個性というものは貫けない。意思を曖昧にして孤立したくなくて個性を無視して良い人を演じて生きる人は多い…だがそういう人は個性を無視している分、心身を病む。自分を始めヒトの多くは強い意思を持ち合わせていない。死は突然に訪れることを神の山御嶽は示した。「さあどうする」と私達は問題提起をされたのだ。
  滝に打たれ続けて来て確信したこと、それは死は確実に生きる裏に存在していて、だから都合の良さ・便利・効率、その如き相対・比較の価値では死に耐えられないということだ。滝打たれでそれが論理ではなく皮膚感覚から生まれたと言える。単純に「日々を真剣に生き切ること」だ。



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