(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成26年1月号
 昭和64年の元日は雨雪だった。

 そんな雨雪の中を滝に打たれるために村松の山中に向かった。以来、滝打たれを続けて26年目に入った。色々と迷いながら滝打たれをやってきた。最近になって普段の目線の定め方の大切さを思うようになった。

多くの人は自分の思いが叶うことを解決と思っているようだ。その殆どは自分を取り巻く状況を好転させることつまりは周りが変わることを解決と言っている。だが周りが自分にとって都合よく変わることはほとんどありえない。人はそれぞれに自分中心の思いを抱いて生きているからだ。周りが思い通りに変わるときは利害が一致している時だけで、その利害の一致が永遠に続くことはありえない。だから一時的に思いが叶い、それを解決だとしてしまうが、一時的なものだからその解決は、じきに破綻をきたす。一時的な解決をして解決と理解することにはどうしても無理がある。

滝では「解決とは自分が変わること」と説く。自分を取り巻く環境がどんなに都合よく変化しても、逆にどんなに自分に厳しいものでも、それにこだわっていたって解決にはならない。変わるのは環境ではなく自分なのである。

教育環境などと言う言葉があるが、環境を勉強しやすく整えたとしても勉強が進むとは限らない。要は環境が都合よく整われる事ではなく不利な状況をどのように受け入れて頑張って行けるか、でしかないと判る現実は自分がどんな状況でも頑張り切れることが求められているだけなのだ。解決とはそういう自分に変わった結果で得られるものと言える。

解決が自分の変わることにあると知る人は言い訳をしない。滝に打たれて判った事のひとつに言い訳の無意味さがある。「寒かったから集中できなかった」「風があったからビビったままだった」「会社で面白くないことがあったからうまく打たれることができなかった」…。それらを不首尾に終わった滝打たれの理由にするが、それはできなかった事の理由にしかならない。そのような言い訳をする人は、できない原因を周りに求めている。自分は正しいし頑張った、だけど周りが悪くて結果を出せなかった、と言う。果たしてそうか?

ではそういった状況を整えた上で滝に打たれる場合は、その意味があるのだろうか。さらに言うなら、うまく打たれるとはどういうことをいうのだろうか

どんな状況であってもきっちりとやり切れてこそ、滝打たれである。状況分析が出来たとして、その分析をクリアできる自分であることが求められているのだ。なのに多くは「今度は○○しよう」という対策までは考えない。対策を講じれないものはどんなに細かく分析できていようとそれを分析とは言わない。分析を言い訳にしては意味がない。ヒトはどんなに面倒でも丁寧にやり切ってこそ自分が変わってゆくのだ。

考えてみれば判るが、生きることの全てが面倒なことなのだ。小さな面倒を丁寧にやりきれない人は大きな面倒と対面すらできない。対面できないのだから解決できるわけがない。面倒なことをやり切れれば結果として生きる目線を低く設定してしまう。だが生きる目線を高く設定している人ほど日々を辛い・難儀と訴える。そして「私ほど辛く難儀な人はいない。だからこれ以上何もできない、だから助けて」と宣う。

そういう人は、周りを都合よく変えて自分の辛さ・難儀さから逃れることを幸せと思っている。だが都合よく現実を変えたとて、生きたことにはならないのだ。どんな状況でも、人は今いる場所で生きるしかない、いや人はそういう状況でも生かされていると考えざるを得ない存在なのだ。小さな面倒を省略するから生きる目線を高いところに設定する。そして自らを苦しくさせるのだ。



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