(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成26年2月号

 真冬恒例の白玉の滝「真冬の滝打たれ」は1月10日に行われた。今年は朝になって降雪を見た。お陰さまで薄らとした雪景色の中で行うことができた。とは言え、気温0度水温2度の気象下での開会は一般参加者には厳しい事のようだった。

一般参加者と健魂の会員の違いは吹っ切りに要する時間である会員は早い。即ぐとまで行かずとも、容易に気持ちを切り替えられる。切り替える事が完全にできなくとも、切り替えるべしと言う命題は呪文のように刻み込まれている。だから切り替えは早い。…それが修行だと説く。

修行は結果を出すものではない。ハードルをクリアするためのシュギョウは修業であって、修行ではない。修業と修行の違いは大きい。修行は自分を見つめることの出来る人格が生まれて終了する。当然に自分の思いとは別の人格が生まれる。その人格を潔く受け入れられる事が終点なのだ。修行が終わっても現実は何も変わらない。現実が変わらなくてもその現実を大いに受け入れて行ける自分に変わる事を意味する。周りではなく自分が変わる…それが本来の解決であると滝では説く。

本来の解決と出会うことができれば、何があっても生きてゆける。自ら死ぬことを含めて、どんな目にあってもどうでも生きてゆける、死んでも生きてゆける…それが修行の到達点なのである。この到達点を価値観とも生き様ともあるいは神とも称する。

問題はこの生き様を子供たちに残せない大人が多いということにある。

ヒトは異常な力を持っている。真冬の滝打たれは不思議でもなんでもないのだ。そして白玉の滝に打たれた初心者の多くが一様にいうように、極めて爽快になれる。そして多くは次回も参加したいと言う。だが実際に参加する人はほとんどいない。今回の白玉でも4人だけだった。

滝など続ける必要はない。滝を信仰対象までに筆者は畏怖しているが、滝は実際には何も教えない。誰が打たれようとただの物としてしか扱ってくれない。だが滝から筆者は学び続けてきたと思っている。だから毎回参加する人が素晴らしいと言うのではない。毎回参加しても変化が見えないならば意味がないのだ。変化している人こそが素晴らしいと言いたいのだ。更に白玉のイベントに続けて来る人は滝から学んでいないと言わねばならない。水のない滝つまり社会の否応無しの生活から、学ぶのではなく学ばせられているのだ

学ぶと学ばせられているとでは大きく違う。本物は生きることが理不尽であるとを熟知している。不本意な状況にしか生きられない事を受け入れている。だから現実には受身でいられるし、その受身は何があっても生きてゆけることにつながっている。その人の中に住むもうひとりの自分に叱咤されるから白玉に来ざるを得ないのだ。自分から来年も来ますと言える人はまだまだと知るべきだ。もし来年も白玉に来たらその時は来年も来ますと言わない人格になっていてほしい。

…要する修行と修業の違いなのだ。

 私達は日常の水の無い滝を忘れて生きている。なんでも自分の意思で決めて偉ぶっているが、それがわがままだとは気づかない。わがままでいたくなかったら、来たモノを選ばずやって見るがよい。だが多くの人はそれを不幸と呼んでやろうとはしないだろう。それではせいぜいで修業にしかならない。修業は合理的・利益導入の生き方にしかならない。

利益導入の生き方をして目に見える成果を上げたとて自分の中に新たな自分は生まれない。それほどまでにヒトは不合理な存在で、合理的な解決に染まない存在なのだ。不合理の中を全力で生きた親にこそ子は『背中』を見出す。自分の背中を作れない親は子を大きな不幸にしている。それは切ない程の愧じなのだ。



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