(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成26年3月号

 ソチ冬季オリンピック開幕直前にこの記事を書いている。だからこれが掲載される頃には記事の内容と違っていることがあるかも知れないが敢えて書いてみる。

 浅田真央とキムヨナの違いである。この4年間、浅田が滝に来ないかな・滝に呼ぼうか、と度々思って来た。どうでも良いことだが、浅田の進歩のなさにそのように思わせられてきた。同じことを思っている人もおられて「キムヨナは勝負師、浅田は妖精。だから勝負は初めからキムの勝ち決まっている」とは韓国スポーツ界の重鎮の発言だった。

 そこに加えてソチ直前になって浅田は得意の3回転半ジャンプの封印を言っていた。今回限りで引退を宣言しているにもかかわらず、だ。

 勝負師と天才の違いだ。もっと言えば才能の磨き方の違いを思っていた。勝負師という才能もあるかもしれないが、それは殆どがそれまでの努力の結果によるものだ。その努力とは何か?。「生きるってドキドキする」という事を体感し尽くす事だ。わが国ではこのドキドキについて異性へのときめき以外を悪い事として考え不幸と呼んでいるが、そこからして間違っているのだ。

 それまでの努力の結果、ドキドキが普段のことだと体に染み込むまでやり通せば済むのだ。相撲界には「琴奨菊」と言う大関がいる。この関取が大関になる直前、ある大学の教授からメンタル講義を受け、準優勝し大関に昇進した。テレビではこの新大関のメンタルトレーニングを特集したりしていたが筆者は「どうせ付け焼刃。直ぐにメッキは剥がれる」と思っていた。残念なことに実際にそうなった。

付け焼刃で処理できるほど、ドキドキ処理は簡単な問題でない。それは普段の積み重ねの問題で特別なことでないからだ。付け焼刃で一回は結果を出せるだろうが、それで終わりだ。この関取は掴みかけたコツを一場所で使い果たした。それは自分で考えなかったからだ。自分で考えられなかった問題は、いくら教えられても身につかないものだ。違和感を体が感じて、その違和感を体から排除出来る。教えられた違和感では排除してみようがない。意識変革、もっと言えば洗脳の成果はその程度が限界なのだ。それでも良い方なのだ。普段の事だから、努力をやり通してそれを癖にしてしまわない限りドキドキは収まらないのだ。

 ドキドキはだから挑戦する姿である。それが普段の生きる姿勢と悟るべきなのだ。だからドキドキするから異常な力が発揮出来て、クリアでき、ヒトはどんな環境にでも順応できるのだ。それを実践しているのがプロ野球のイチローなのである。彼はドキドキを生きる常と心得ている。だからできないことに挑める。自分の出来ねばならない事に頑なになってチームメイトから浮き上がることはあるが、それほど程に余裕のないのが違和感の取り込み、という事だ。

 話を戻すが、浅田真央は最後の発表会に行くのではなく、引退を宣言して結果を出しに行ったのだろう。国の多くは浅田に結果を求めていない、ただ4年間頑張って積み上げたものを発表しなさいと言っている。ドキドキが普段のありきたりのことであるという事の会得に手間取ってソチ五輪に間に合わなくても、それは何の恥でもない。努力した事を多くは認めたいのだ。逆に言えば、恥でない事が判らないのはドキドキを見つめなかった事の証明になる…だから浅田は大技を封印して金メダルを取ろうと判断出来たのだろう。対するキムヨナはありきたりの事がどういう事か判っている…これは生きる目線の差なのだろう。



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