(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成26年8月号

 今年も白玉の滝、夏の滝打たれが終わった。前日は大雨の放送に泣かされっぱなしだった。そんな中、9時すぎに白玉の滝のある自治会の会長が電話を寄越した。既に白玉の滝のある秋葉区では大雨による避難勧告が出されていた。「明日の滝打たれを含め一切中止を致します」と言う内容だった。避難勧告が出されようと、今の状況を明日に及ぼす必然はない。明日は明日の風しか吹かない。私達は明日やります、ということで決着した。
 そのドタバタとは無縁に当日の白玉の滝は、大量の落水だった。だが落ち着いた落水であった。これならば滝そのもので起きる事故はあるまい…と思った。
  この大量の落水によってほどよく緊張できたのか、今回は皆さんうまく打たれていた。うまく打たれるということは集中して、という意味で、本来滝打たれにうまいも下手もないのだが…。
  ヒトは緊張しなければ力を発揮できない。ドキドキするから人は異常な力を発揮でき、ドキドキしない時の4倍の力が発揮できる。逆に言えばドキドキしていなければ異常な力は出せない。コトに臨んで「落ち着け」というが、落ち着いていたら異常な力は出せない。落ち着くとはただ精神が平坦なだけだ。平坦だから精神的に安定していると解釈するが精神が平坦な時は平坦な力しか出せない。ドキドキするから異常な力が出せる。だがドキドキするから精神は平坦でなく、舞い上がって自分が今やるべき事を失念してしまう。ドキドキしつつ異常な力を発揮するには、落ち着くのではなく慌てないことが肝心なのだ。「今、何をすべきか」をしっかり意識できてドキドキしながらそこに拘り続けられる…それで異常な力が結実に向かって行く。この点が今回はうまくできたと思えた。色々な思いで滝に打たれるが、滝は何も教えない。滝に打たれて劇的な真実を出会えると思ったら大間違いだ。滝打たれはその人の普段の生活しか表さない。ドキドキに負けていじけているなら,そういう姿でしか打たれられない。だから満足以外に何も得られない。普段の生活が真摯で全力であってこそ、滝は色々なヒントを与えてくれるのだ。
ではどんなことを真摯で全力と言うのだろうか。要するにどんくさい生き方を言うのだ。スマートにとか、かっこよくとかは結果でしかないのに、行動の形にしてしまう…。話が飛ぶが、サッカー日本は今回のワールドカップでこれができてなかった。そんな事で勝てる方が不思議だ。生きる基本形はどんくささにある。それを大人が忘れてしまってはいまいか。それで例えば思うような結果が出たとしても、何も学ばない。いや学べないのだ。
  ミャンマーと言う国は兵役がない代りに仏門に2年間入る。平均寿命60歳位の国がその30分のTの時間を自分開発に向けている。個人が開けなくては国はなお開けない…日本は80年も生きるのに自分を見ようとする時間を持たない。
  大人そのものがドキドキの意味を知らない。ドキドキすることを悪だと思っているし、不幸だと思っている。反対にラッキーでしかない事を幸せに思っている情けなさがある。
ドキドキは生きる普段、ありきたりでしかないのだ。なのにヒトの心の広さとか不思議さとか奥行とか、そういったものを大人が知ろうとしない。ただ都合の良い結果を出して、3分間だけ楽しくあれば良いと言う生活を繰り返している。好都合だけを得て、普段の在り来たりを知ろうとしない…在り来たりにしか安心は存在しないのだから、そんな大人には安心というものがない。だからどんなに結果を出せても自分が満足するだけで安心できないし、周りもそんな結果を認めない。それは安心できる生き方を大人も求めている証拠じゃないか。そんな大人から子供たちは何を学べというのか?。安心できる生き方を大人が教えられなくてどうする。大人の自分教育に滝打たれこそ役立つ…白玉の滝打たれというケジメを踏む度にいつもそう思う。



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