(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成27年1月号

秋季参拝で御嶽に行って来た。大丈夫ですかという心配を沢山いただいた。御嶽が噴火しているのだからそういうご心配も先様のご配慮として有りなのだろうと思いつつ、中には全く無関心で心配をしてくださった方もおられたような気もした。

御嶽山麓は普段となにも変わらず、静かでのどかだった。思えば塩尻付近からは穂高連峰が見えた。秋の信濃路の静かな風景だった。近年の温暖化の影響で、時節の紅葉は気配だけがしていて、まだ早かった。山麓の旧三岳村の里宮を過ぎてからは野麦峠に向かう西野川沿いの谷とその北に乗鞍岳がきれいに見えた。全く普段の晴れ渡った御嶽山麓の姿だった。御嶽が噴煙を上げている以外はなにも変わらない風景だった。

3合目半の通称「屋敷野」という四・五軒しかない集落の手前で車を止めて皆で噴煙を上げる御嶽の写真撮影をした。…物見遊山で御嶽に行ってないから風景を写真に収めるってことは過去にないのだが、今回は特別だと思った。火山活動は数万年単位のものだから、今後、数万年の間、この景色になって見慣れて行くのだろうが…一昨日の16日、自衛隊は受難者の遺体捜索を中止にしたのだった。この朝の三岳の最低気温は氷点下3℃、御嶽山頂ではマイナス13℃にはなっているからそれも当然で、むしろ遅すぎたと思っていた。遺族は何故「もう十分やっていただきました。新たな遭難者が出る前に捜索を打ち切ってください」と言えないのだろうとも思っていた。それを言えば薄情で悪い人と思われるのだろうと思ってもいた。

直線で9キロない距離で御嶽は噴煙を上げている。8合目半まで火山灰で灰色になっていた。対して自分達の立っている場所は全くのどかで静かだ。…このギャップ。これこそ神の人智の及ばぬ気まぐれの証明だ。予想はしていたが万感迫り来た。

神は人を屁とも思っていない、神は摂理が続く事以外を守ろうとは思っておられないからだ。これを判らずして古神道などと言って欲しくない。これを判らずしてヒーラーは人を説いて欲しくない。ましてや宗教家は信仰などと言って欲しくない。

神は人を救うもの、と思い出したのはいつからなのだろう…と思った。貧病争からの解放をこの国の宗教は扱ってきた。そんなのは政治の領域じゃないか…。貧病争から解放されたって、ヒトが生きる事になにも関係しない。考える人は貧病争からだけでなく、どんなことからも考えてゆく。だが人に味方する存在を神と考えた人は多い。

神は人の便利屋さんではない…神は人なんかを救わない…その事を数万年単位の噴火現象で御嶽は私達の眼前に証明している。便利屋さんと思ってきた人の多くは「至誠天に通ず」と考えてきたようだ。だったら今回御嶽で亡くなった方は至誠を持たなかった人々となる…そうではない。神はその人がどんな価値観で生きようがそんなものは認めない。真面目であろう・正直であろう・良い人であろう…そのように信念を持って生きることは各自の自由だし、なんであれそういう信念に基づいて生きるべき。だがそういった信念で助かろうとか救われようとかいう見返りを神に求めるのだとしたら、それは甘い。間違いなのだ。神は人の便利屋さんではない…神は宇宙が続くことを守る以外は気まぐれで動かれているだけだ。気まぐれで動いて乗り越えられる強い種の出現を強いてもおられよう。人の便利屋を務めるそんな安っぽいものを神に見立てる自分の生き方を恥じるべきなのだ。数万年単位の現象に立ち会えた、いや立ち会わされた…それを幸運として学ばねばならないのだ人が増長して生きていることを、無常の判る生き方を、神の下す不合理に対して躊躇せず受け入れられる死に方を。…死に方とは生き方と同じなのだ。



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