(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成27年5月号

子供の頃から「良い子になれ」と言われてきた人は多い。実際に私達はこの言葉で行動を制限させられてきた。女性の場合はなお過酷で「良妻賢母」と言う言葉すらある。家が中心であらねば社会が維持できなかった時代にあってこそ良妻賢母は存在する価値があった。そんな時代でなくなったのに、未だに良妻賢母を指向する女性もいれば、それを求める男性もいる。個人重視の時代になった事が判らないのだから仕方ないと言うべきか…。だが本来「個人」が時代を超えての真実である事が判らないというのは辛いことだと思う。
  何故「良い子」が求められるのか?良い・悪いは結果としてしか存在しないことに気づくべきだ。結果に対する反対語は「経過」であろうが、経過での評価は良い悪いでなく「本物・偽物」でしかない。つまり本当に経験をして、その結果に得るものがことの良し悪しなのである。更に言うなら、ことの良し悪しの判断の範囲外に「学ぶ」ということが存在している。生きるとはそういう事だ。
  ヒトは経験せねば判らない。失敗をしたら自分で判る。心に切なさが残る。わだかまりが残る。だから次の時は身構える、切なさやわだかまりが起きないようにする。失敗とはそういうことで、ヒトは失敗からしか学べない。それなのに失敗すら悪い事に位置づけてしまう。
  大人はやらないうちから「悪いこと」と言う。やってもみないのに「悪いことだからするな」と言うし、その悪い事をやらせないようにする。さらにはそれが「あなたのため」「愛情だ」と言う大義でくくってしまう。
  結局子供は学べず、学びは経過にしかないのに、結果として良いことだけを知識として蓄える…。当然になぜそれが悪いのかわからない、その癖に知識として蓄えられてしまう。理由の判らない良し悪しばかりになるから最終的に「どうでも良い人」に育ってしまう。頭でっかちで、どこの子も同じ表情で同じ行動パターンの金太郎飴になる。そこに安心はないし、満足すらもないのにもかかわらず、だ…。
  満足しているのは大人だけ。親は愛情と言う大義で、自分の満足する人に子を育てようとする。その挙句が「どうでも良い人」にならせてしまう。そして「いつからああなったのだろう」と言う。それは誰あろう大人ですよ。人のことを言えないけど、親たる自分ですよ。その実、親の満足する人に育てて、親が社会的に良い人という評価を得られて喜ぼうとしている場合も多い。子の為ではなく親の評価の為に「良い子」を強いて気づかぬ親は多いのだ。
  やるべきと決めたらそれが正義である事を大人自体が知ろうとしない。自分が自立できていないくせに、理由がわからぬのに安全パイの「良い人」を子に押し付ける…学生運動は親の否定で始まる場合も多かった。最近ではオウムと言う教団の支持され方が親や大人の否定だった。
  生き抜く為に良い人であろうとする…。ただ相手を認め敬ってゆくだけなのに、それを生きるためと言い換えられる意識の低さ…その程度を「生きる事」と言える甘さを大人自体が判っていないのだ。良い人になって成功したとしても学んでないのだからそれはラッキーしか意味しない。それを成功した秘訣のように話する社長に至ってはただ笑うしかない。だが多くの大人はそういったラッキーなだけの社長を成功者として褒めたたえてしまう。
  一方では良い子で育って来た子は自分の心がわからなくなってしまう。そういう自分の心が判らない人は親の塗った色を消すに消せなくなっている。だが消さねばならない。だが消さない方が知は痛みがないから楽に決まっている。良い人でいれば痛みは感じない。だが永遠に自分を生きたことにならない。その思いは心に澱み続ける。戦うべきは学びへのストレスなのに、社会での折り合いのための良い人へのストレスで心身を病ませる。心は自分らしく生きたいからだ。
  正義と思ったら社会常識も法律も関係なくなる。その胆力を大人が持っていないのではないかと思う。



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