(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成28年2月号

滝打たれでは「自分から動いてなんぼ」という。自分で考えて動けば結果ゼロでも満点」ともいう。
  動いてなんぼ、とは言うが、最初から筋立てて考えられるわけがない。ヒトの普段が大事な理由はここにある。現代は気にいらぬ事を避けても暮らせる…だがだからいざという時に筋立てて考える為の経験数が不足となる。人それぞれではあるが、年相応の経験と言うのはあってしかるべきだ。年相応の経験をどう理解するかこそが人それぞれなのだ。 
  いずれにしても、何事も初めは考えがまとまらなくて当てずっぽうで動かざるを得ないものだ。逆に経験数も少ないのに初めから理路整然と話せる人も見受けられる。そういう人はたとえ正しい事を言っていても応用が利かない。予備知識とか学問とはそういうものでしかない。
  そういう当てずっぽうを繰り返して、いつかこれという考えが浮かんでくるのがヒトだ。自分で考えを持つと言う事は大変に大事な事で、体験から考えて動けば、いつか必ず成功するように出来ているのだ。ヒトはどんなに頭脳が優秀でも、結局は経験からしかそれらの情報をつなげて行けないようにできているのだ。
  まず動く…動いて失敗をたくさんする…失敗の数が多いほど真実に近づき成功に近づく…だが、そのように経験を積み重ねて成功したとしよう…。問題は成功後にもある。成功を次の学びのステップにできるかどうかという事が成功というものにはついて回る。
  多くは成功を1つの区切りとする。成功はそれだけ満足を伴う…。だが生きると言う事は満足する事ではない。満足は生きるという事の一つの風景でしかない。風景と言う事はそこに留まっていてはならない、という意味でもある。それなのに、成功に満足をし、その成功した結果を守ろうとする。だが守ってみても、何も生まれない。成功してそれを壊して行って初めて学びになるのだ。
  滝では「夢は必ず実現しろ、そして実現したらすぐに壊せ」と言う。
  夢の実現は自分の本音を知る第一歩だから、夢は実現させねばならないものなのだ。夢を果たせない人が「人生は結果ではない」と言うとしたらそこには真実はない。夢を実現した人こそが、人生は結果ではないと言える権利を持っていると言えよう。こうしてみると、夢と言う存在すら縁遠くなっている人も多く見受けられる様な気がする。
  問題は、夢を果たした時にそれを自ら壊せるか、という事にある。普通は、成功という結果を出してみて、初めて求める理想との差に気づくものなのだ。夢の実現は自分の本音を知る第一歩と言う訳はここにある。逆に言えば理想との差に気づかぬのならば、理想そのものが曖昧な事を意味していよう。
  例えば格闘技で世界チャンピオンになったとして、その地位を守る人と、自分の強さがどの程度か知りたくてあくまでも挑戦し続ける人とがいる。そして挑戦し続ける人は『強さとは何か?。何で自分は強さを求めるのか?』という問題に至る。更にそれが自分の個性を知るための大事な入口になっている、のだ。
  逆な言い方になるが、理想が曖昧でいられるのは普段からその理想について考えていないからだ。半世紀前に『いいじゃないの幸せならば』と言う歌がヒットしたが、その程度で生きる欲求が治まるのだろうかと50年経とうとする今でも思ってしまう。
  理想は本を読んだり人に話を聞いたりして浮かんでくるのではない。普段から苦痛を感じるから生まれ出てくるのだ。理想は思い付きでは生まれない。段から苦痛を感じて、感じ続けている…そうやって理想は浮かんでくるのだ。
  苦痛を感じるとはイコール考えるという事だ。だから理想を実現しようとする途中でその理想の限界も見えてくる。だからまた理想が実現できてもそれを壊す事に躊躇いがなくなる。夢は実現させて必ず壊す、の意味はここにある大事な理想こそ強くて長時間を要する苦痛なのだ。



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