(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成28年3月号

真冬の白玉の滝打たれが今年も行われた。毎年11月に木曽御嶽で行われる初冬の滝打たれ13番勝負の前から準備して、1月に開催される。今年は地元、金津自治会の協賛が力強くなって大いに助かった。
  さて、なんであれ滝打たれは日常的でない。昭和初期には確かな健康法として滝打たれはあったようだが、それだって非日常だから目立っていたのだろう。
  非日常…めったに出会わず、しかも怖い…だから緊張する。緊張するから主催側の指示したことは半分も守れない。
  パニックを起こすとはそういう事だ。非日常に際して心が揺れない人はいない。と言うか、心が揺れない事はその人にとっては日常・普段乃事という事になる。
  主催側はパニック状態で打たれる人達の安全を見るだけで精いっぱいである。事前説明を行ったから理解され安全に打たれられると考えるならば、その人はパニックと言うものをご存知ないと言うしかない。事前説明を行ったがそれで信用できるほど人は賢明にできてはいない。
  だが緊張すればこそヒト個人には異常な力が湧いて出るし怪我をする率も下がる。これはラグビーなどと同じくである。緊張はヒト個人に異常な力を生み出させ、またパニックを起こさせるものだと言える。
  醒めてみればヒトは精いっぱい背伸びして成長をしてくる。この精いっぱいの背伸びだって緊張の賜物と言える。恐怖はないが、ドキドキハラハラして新しい事と対面し、クリアしてドキドキハラハラを修めて来た。それが成長と言う側面である。
  我を失っている事を緊張と言い、緊張すればこそ背伸びが出来て、ヒトは生き続けて来たと言える。背伸びと緊張はイコールで、これを一緒くたにして「成長」と言って来た。  だが困ったことに、緊張してしまうと普段通りの行動ができない。必ずパニックを起こす。パニックに陥っている時は普段の自分と違う…だからカッコ悪いと思うようだ…しかし、そういう認識は間違いだ。
  緊張した時の姿は、普段と違う非日常の出来事に対して生理的に対応できている姿である。つまり、ただ普段と違うだけの事なのだ。違う状況に対応できたから普段と違う生理の自分になっている、という事だ。
  ヒトは苦戦をして尋常な精神でない時にその「人となり=個性」が表れ出る…そうでないと異常な事に対応ができないように出来ているのだ。
  それを普段と違うから変な自分だと思ってしまう。確かに変な自分だが、異常な事に対応できて精神的に異常になっている立派な自分なのだ
  緊張して手に汗をかき腕が震え、声も上ずり、足がガクガクする。当然に表情も硬い…それこそ異常な事に対応できている立派な自分の姿なのだ。
  それをカッコ悪いとして隠そうごまかそうとする…。認識が違うと言えばそれまでだが、異常な事に対応できている立派な自分なのだ。カッコ悪いから隠そうとする事自体がじつにカッコ悪いと気づくべきだ。個性を最大にパフォーマンスしている自分をなぜカッコ悪がるのか…。
  自分が緊張すればこそ表われる姿なのだ。緊張を誤魔化すと出来ない姿なのだ。だからどんなに普段と違っていても、一番カッコ良いものなのだ。
  緊張できることはすごい能力なのである。パニックを起こす緊張を誤魔化す人は永遠にこの能力を持ち合わせられない。人生は緊張してパニックを起こしたものの勝ちである。  何に対して勝ちなのか…。それは学ぶという事についてだ。パニック一回では学べないからパニックを起こし続けてその緊張を取り込まねばならないのだ。そして緊張を取り込んだ時に、ヒトは学び終える。その時、生理的にも精神的にも大きく成長を済ませている。 
  学ぶに必要な痛みとはそういう事だ。どんなに普段と違う自分はカッコ良いのだ。緊張し恐怖を隠さないのはカッコ良い。堂々と、とはそういう事だ。




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