(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成28年5月号

この冬の滝小屋には社員研修として訪れる人達の回数が多かった。それぞれに個性の強い職員の集まった会社と感じた。
  そういう彼らを受け入れて嬉しくも思った。だが半面、何物にもぶつかって確かめる事が出来る自分、そういうプライドを持っている人達が集う会社だから敢えて滝打たれという手法を取る事が出来たのだろうとも思えた。多くは無理しないで怖い目をしないようにして、研修を企画したがるからだ。
  「死ぬ時も前に倒れろ」と滝小屋では無理を訴える筆者である。個性の強さは前向きな心に裏付けられていて、だからそれが判る人達を嬉しく思えるし、それが社員研修に来た会社に共通した社風・価値観であった。その事に筆者は共鳴していた。  それは『人作り』が研修のテーマであるという事だ。これをテーマにできるのは、会社のトップが「判っている」という事だ。何を判っているかと言えば、人作りと世渡りの区分けを、ということだ
  人作りという生きる事と生活するという世渡り…この両者の区分けが明確である事は大変大事な事だと私は常々から思っていた。『生活することと生きる事とは全く違う』と筆者は若い時から言って来たが、多くからは、ぜいたくな悩みと評された。いやいや私はあなた方より質素な生活しかできませんよ、とその都度思っていた。そんな私を贅沢だという人は楽して生活できて幸せな人生…と思いこんでいられる人達だった。
  楽して生活できて幸せと生きる事とは次元が違う…この事を大人の多くが知らないと若い時から思って来た。ヒトは自分らしい生き方が出来なくなるならあえて生活する必然が無いのだ、何のために生きるのか…それが判らない人は多いようだ。
  この国は教育と学問が全くゴチャ混ぜになっていて、そして多くの人はそれに気づかない…。だから高等な学問をするのは良い立場を得る為…という事に疑問を持たない。この場合の良い立場を得る為の学問とは世渡りを楽にできる事である。学問を世渡りの手段として疑問に思わない。資格はその知識を活かすべき使命を持つのに就職してしまうと知識維持の努力を薄れさせてゆく…。それが幸せなのだというみみっちい価値観が現実にまかり通っている。
  繰り返すが、教育とは人作りを自分で行う事であり、学問とは全く異質なのである。それなのに子の幸せだけを願う親が多く、学問を楽に世渡りをする道具にして何とも思わない。それは、堂々と生きる事とは、甚だしく離れた価値観である。楽に世渡りをする為に常に自分を主張しない…だからストレス漬けになる。堂々と生きればストレスなんか喰い散らかせるのに、だ。
  教育は人作りであって「やるべき事は泣いてもやる」を教え、それが自分でできるようになるものだ。そこから「自力で生きて行く事」を覚悟出来るように自分を育てる事だ。自力で生きて行く・自発的に生きて行く・堂々と生きる、は教育からしか生まれない。更には自力・自発・堂々とはストレスを生むという事だと気づかねばならない。ヒトはストレスに依って学び自分を作り自力で歩いて行くしかない存在、という事だ。それは親が子に強いる事である。だが家庭教育が忘れられている。だから、その分を会社で教える…。トップが人を大事にしている証拠だ
  上手く世渡りする事が幸福で、その幸福しか教えられない大人が多いのだから、亡国も仕方あるまいと思ったりする。ある会社にいて人生の宝物となる価値観・生き方と出会えた人が社会に広がって行く…そうなってこそ国は活力を増す。
  活力こそが大事なのである。活力の中には矛盾が存在している。その矛盾が学びの対象なのだ。物品の豊かさなどは矛盾のずっと後に来る問題なのだ。その矛盾を無視する…つまり自ら自分の生きるエネルギーをつみとってしまう…。何より、前向きな姿は人の共感を生む。ヒトとして凸凹があっても、結果として周りに共感をもたらしているのだと思う




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