(毎月発行の『連絡紙』より)

●平成30年10月号
  地震の復旧またもや進まず、行政も地元の主達も頑張る気の曖昧なまま、今夏登拝に至ってしまった。だが災害はどうして都合良く起きようか。だから嫌な状況に決まっている。どうであれ、ただ受けて立つしかないのだ。筆者は里宮で、役所で、旅館で、色々と自ら頑張るべし、と訴えて来た。だが通じない。私は被害者ですから…の態度がせいぜいであった。噴火で求められたはずの否応なしの頑張りは地震でもできなかった。周りをアテにして自ら動こうとしない…行政までがその様で、これは大きな失望であったが、醒めてみれば当然の事だった。
  彼らは彼ら・こっちはこっち、で臨むしかない。そう思っての今年の登拝だった。少人数でもあった。今年がチャンスかな、と。昨年ぼんやりと思っていたことを実践しようと思った。
  とにかく言われた事を徹底して行う…登拝修行は自分の思いを捨てて通す2日間であって、大声を出す点では変わらないが、行き交う人と握手をして行く事が大きく違った。去年までは私だけが最後尾でそうしながら登拝していた。すると、みなさん一様に喜ばれるのだった。自分は疲れているのに、大声を出してその上にニコニコして握手をして行く気違い集団の我々…それは或いは他の講社のメインである神下ろし以上に求められている価値として一般登拝者には捉えられている…と思い始めていた。自分達の先達より本物…という思いもあるのかもしれない。いずれにしても握手だけで励ましとか元気とかを呼び起こせるものらしい、と思う様に筆者はなっていた。
 今登拝の同朋は人と接するのが苦手な人でも握手をさせられた。登りで苦しくても握手させられた。苦しいことは笑顔を絶やす事や握手しない理由にならない。どんな理由も大声と握手をしない理由にならない。我々にとっては簡単なようだが「それはそれ・今は今」の修行の原点の繰り返しで、ある意味で厳しい。
  苦しいから粗雑に行ってしまう…余裕が無いから省略する…そういう人は楽な時でも粗雑だし、余裕があればある程省略する。理想の状況でなければキチンとできないと思っていなくとも、この種の手抜きは多いにやっている。嫌々やるだけ、いや、ただ我流で時の過ぎるのを待つだけ…そんなものを「やった」とは絶対に言えない。常に人生は逃げられない本番の連続なのだ。その連続に手を抜く事は可能だ。だからこそその程度の人生を自ら作ってしまうのだ。ピンチだからこそ、最後まで手抜きができない。手抜きでは学びにならないのだ。
 登拝しながらの握手…その上、周りには励ましとなり苦しい時の孤立感を壊すようで、喜ばれる。初日の8合目までやってみて、筆者の中で勝利感覚があった。二日目は握手で足りなくてハグにまで及んだ。登って行く講社の先達たちが喜んで何度も何度もホラ貝を吹いてくれた。講社にも通じる…(通じない講社もあるだろうが)。これは嬉しかった…限界だからこそきっちり生きる、きっちり生きればこそ学べる。痛みの大きさに比例して大きく学べる…。
  そしてただそれだけで自分が認められる、ただそれだけで周りを励まして行ける。それは御嶽山中ではなく実社会でこそ言える事で、実社会でできねばならないのだ。立場上で手抜きをする…そしてそれを偉さと錯覚し得意がる。それで人生は終わりなのだ
  …人に認められるとか喜ばれるのはその人の持つスキルだと錯覚するが、評価されるのはスキルを作りだすハートなのだ。そこに気づかない。「それはそれ・今は今」で妥協せず全力で行い、それが周りに喜ばれる事を兼ねる…ある意味、筆者の目指す『鍛錬の登拝』のイメージが幼いなりに生まれたのかもしれない。




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