(毎月発行の『連絡紙』より)

●平成30年11月号
 8月末に行われたアジア大会は、「日本勝った・日本勝った」の連呼だった。だがメダル数では中国が遥かに多かった。筆者は第二次大戦の時の「日本勝った、勝った」の連呼は体験していないが、戦中のこの国にいる様に思えて実に不愉快だった。
  視聴率を稼ぎたいテレビ局の煽りなのだろうが、勝った負けただけに焦点を絞っていたら、見る側は興ざめしてテレビを見なくなる。番組を煽って、結果としてテレビ局は自らの努力を軽んじさせてしまう。…自分の仕事の使命を見失ったら仕事はやめる方が良い。それに気付かない視聴者も自分で自分を軽んじてしまっている事に気づくべきだ。
 野球に限らずだが日々修練をして、思いを果たせない人は多い。思いを果たす事の意味を深く考えていない大人が多いと思う。
  親や学校や大人が子に対して行う教育の中で一番に間違っているのは『努力すれば思いが叶う』という事だ。中にはそれを心底信じている大人もおられる。厳しい言い方をすれば、何を生きて来たのでしょう、今まであなたは生きて来てなにを学んでと言うのでしょう、とそういう大人に問いたくなる。
  思いを果たした人が学校の体験教育で『努力すれば思いが叶う』を説く…それで良いのだろうか。それが真実ではなく、せいぜいで個人的な美意識にしかならない。もっと言えば、そういう事をしたり顔で言えるのは、自分で定めた地点に到達しただけで、学んでいないからだ。
  達成感を得られただけで、それが正しいかどうかは判らない。明確に言えば、努力し続けて満足を得ただけで、その満足の自己評価が正当にできていない場合が多い。達成した満足からが本来の学びの始まりなのに、だ。それなのに多くの達成者は学びを放棄し、達成した事の内容の自己評価をしない。チャンピオンが犯罪者になる場合が結構とあるのは、学ぶ事を止めてしまうからだ。
  『努力しても思いは叶わない。だから人生は素晴らしい』を説くことが子への本当の優しさのはずだ。それが真実だからだ。スポーツに限らず、学ぶ事はだから素晴らしいのだ。だからどんなであれ自分に胸を張れる人生に至れるのだ。
  学びを放棄した達成者は逆に真実を伝えないで、それを子に対する優しさだと思い込む。更には達成する事すらしなかった大人は、達成しなかった後ろめたさからか、努力すれば思いが叶うを真実と思いこんでいて、自分ができなかった生き方を子に求める…。それこそが子の迷惑になっているのに、親は曖昧な故にそれを優しさだと信じ込んでいられる。 
  だが、それでも修練を積むことは素晴らしいのだ。結果の有無は別として、修練こそ学びだからだ。修練が学びなのだから満足は存在しない。結果に満足せず、修練から生まれる不具合の矯正を修練する事がより正しい事に繋がる。修練に満足したら、瞬時に修練でなくなる。周りで言われてやるより、自分で修練する事が数倍も苦しいのだ。
  修練に満足しないで、不具合を探してクリアしようとする。それが結果として生きて行く熱量となる。そこが大事で、満足しないのだからヒトには限界がなく、そして生きて行く熱量にも限界が無いのだ。生きて行く熱量は修練に満足しないで、不具合を探してクリアしようとする事から生まれるものだ。
  指導者はその熱を体現できねばならない。立派な成績を残せても、満足してしまって生きて行く熱量を持たないならば、熱を生ませるハートが生まれない。ただ技術だけを教える、ただスキルだけを上達させる…そこにハートが生まれないならば、学び続けては行けない。学びに大切なのは学びの熱を生むハートなのだ。 
  熱は自己矛盾、つまりストレス・痛みから生まれる。正しいとか間違いが問題なのではなく、熱量の大きさ、ハートが問われるのだ。その熱量は自分を動かすもので、自己矛盾の苦しみであり自己研鑽そのものなのだ。スキルを学びつつ、自らの矛盾に熱を湧かせてしまう…そこへ導けてこそ、指導者たれるのだ。




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